0906_比較の世界で生きる人間に対する2つの聖書の言葉

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あの人はああなのに!?

聖書には人を見るな!神を見なさい!というような言葉があらゆるところに記載されています。その最たるものはこの御言だと思っています。

ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。
ヨハネ21:21-22

御言の前後を省略していますが、僕もペテロと同じように「あの人はこうだ」とか「この人はこうだ」と言ってしまうことがあります。しかし、その度にイエス様がおっしゃるのは、「あなたは、わたしに従ってきなさい」ということでした。

この人はこうなのに!?

また聖書には人を見るな!まずは自分を見ろ!というような言葉もあります。その最たるものはこの御言だと思っています。

なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
マタイ7:30-31

僕は時に「あの人はこうだ」とか「この人はこうだ」と言ってしまうことがあります。しかし、その度にイエス様がおっしゃるのは、「あなたは、どうなのか?」ということでした。

どう生きるか?

人間は比較の世界で生きているので、そこからは逃れることはできません。そこで生きるしかないのです。しかし、比較の世界で「どう生きるか?」を選択することができます。聖書はそういった比較の世界で比較で苦しんでいる人に御言を今日も語ってくださっています。

自分が人を見ていると思ったら自分はどうなのか?とまず内省する。それによって、悔い改めに導かれることが多くあります。そして、次に神様のほうを向きます。そうすれば比較の世界にある不安や恐れから開放されて、ただただ主にある平安が心を覆います。

従うだけ

もちろん、たとえ周りがどうであっても環境がどうであっても、この言葉を絶対に忘れないようにしたいです。

「あなたは、わたしに従ってきなさい」

聖書の御言を信じて握った者には必ずその御言の通りになるのです。忍耐や耐え忍ぶことを通らされることによって、その御言に対する信仰がますます強くなるものです。

決して目に見えるところによって失望することなく、目に見えないお方を仰ぎつつ、腐らないで生きていきたいです。

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