0585_昔思っていたような今じゃないと思う時

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ランニング中に

先日からランニングを再開しました。秋晴れのもと音楽を聴きながら刻々と変わる景色を鑑賞しながら4キロほど走りました。夕方くらいになると太陽の光も眩しくなく、柔らかい陽光が希望を与えてくれているようにも感じました。

走っていると、色々と教えられることがあります。それは別に啓示でもなく、悟りでもなく、神様からの語りかけじゃないかもしれません。なぜなら、神からの語りかけは聖書だけで十分だからです。ただ単に自分がそう思っただけなのかもしれないのですが、ここに書いておこうと思います。

10代の頃に思っていたこと

僕は今に感謝しています。今置かれている場所や環境にも神様に感謝しています。ただ、もしかしたら、10代に思い描いていたような今じゃないかもしれません。10代の頃は、とりあえず救われた喜びから「リバイバル!リバイバル!」と神様のために働くことに熱い思いを抱いていました。

しかしながら、進学や就職を通して、そういった純粋さからくる熱い思いだけじゃだめだよねというような覚めた目も持つようになりました。とっても当たり前ですが、生きるためには勉強も仕事も熱心にしないといけないし、友人関係も大切にしなければなりません。

ただ当時は神様だけを熱心にもとめていればすべてがそのまま与えられると思っていたので、自分の果たすべき分をやろうとしていなかったのです。

覚えてくださっている

今はよくわかります。天の父は僕のことをよくご存じだからです。必要なことを必要な時に学べるようにこれまで持ち運んでくださいました。もしかしたら、思っていたような今じゃないかもしれません。しかし、主は10代の頃僕が抱いていた気持ちを覚えてくださっていると思うようになりました。

ランニングしていると、この地域をイエス様が愛してくださっていて、慰め、癒やそうとしてくださっている思いが僕に伝わったような気がしました。必ず主はこの地に救いをもたらしてくださるという確信が与えられたのです。

聖書の約束の言

主は荒野に水を湧き出させ、砂漠に川を流れされることができるお方です。また焼けた砂を池に変え、乾いた地を水の源を変える事ができるお方です。僕が今どこにいようと、主がそこにおられるなら、主にできないことはないと思いました。

今だけを見るのではなく、主が与えてくださる変わらない聖書の約束こそが望みです。

見よ、わたしは新しい事をなす。
やがてそれは起る、
あなたがたはそれを知らないのか。
わたしは荒野に道を設け、
さばくに川を流れさせる。
イザヤ43:19

おっさん
■聖書の約束の言葉を握って生きる

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