御言のとおりじゃない自分
聖書の御言と向き合ったり格闘する中で、一生その境地に至ることはできないんじゃないかと思う御言があります。それは、ヨハネⅠにある御言です。「神を愛するとはすなわちその戒めを守ることである。そして、その戒めは難しいものではない。なぜなら、すべて神から生まれたものは世に勝つからである」
神様を愛しているから神の言である聖書を愛してそれを求めます。そして、それを守りたいという気持ちも自然と沸き起こってきます。しかし、その戒めが難しいものではないという境地には至っていません。僕にとってはとても難しいのです。
なぜなら、日常生活を送る中で、神様の愛で人を愛せないことがかなり多いからです。かなり多いというよりほとんどそうかもしれません。結局は自己中心的なのです。
1日に1回主の前に出るようになって
早朝に、通勤前に神様との時間を必ず取るようになってからかなり日常生活の浮き沈みがましになったように思います。イライラしなくなったり、ここぞという時に、ぐっとこらえたり少しはましな人間になれた気がします。単純に刺激があったら本能的に反応をするというよりも、一旦考えてから反応できるようになったのも大きな収穫です。
しかし、依然と神様の愛で人を愛するという戒めは難しくないなどと思えません。それは僕が不信仰だからではなくて、おそらく生き方がまだ「その気」になっていないからだと思います。
ヨハネはどのような1日を送っていたのだろう?
この御言を書いたヨハネはどのような1日を送っていたのでしょうか?早朝だけ神様との時間をとってあとは仕事をしていたのでしょうか。旧約聖書のダニエルは1日3回必ず祈りの時間をもっていましたので、おそらくヨハネもそれ以上に神様に近づいていたということは想像に難くありません。
また、詩篇にも「昼も夜も主のおきてを思う」という言葉があり、1日に1回だけ神様に近づくという生活では不十分であることがわかります。
これからのアクション
僕自身は朝は聖書を読んで、黙想して、祈って恵まれているのに、1日が終わる頃には肉体的にも精神的にも疲れており、朝触れた御言にアクセスしてそこから力を得ようとしていないことに気づきました。
イスラエルでは1日は夕方から始まるそうです。そう考えると1日始めである夕方、つまり仕事終わりに聖書を読み、朝にもう一度読むというのがいいように思いましたので、実践してみようと思います。
神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
ヨハネⅠ5:3-4