1537_主は確かに共にいてくださる。しかし、それだけでは人は変わらない

人は根本的には変わらない

最近思うことがあります。それは人は「根本的には変わらない」ということです。人が変われる範囲はあくまでも表面的なテクニック的なところやマインドくらいであり、個性、資質、その人がもっている本質的な特性は変わらないというのが僕の考えです。自己啓発で対応できる範囲はテクニックとマインドくらいだと思っています。

しかし、クリスチャンは「主にあって変えられる望み」を抱いています。これはこの地上で生きる一つの目的でもあります。しかし、変えられることと変えられないことを正しく認識して理解しなければ、いずれ自分嫌悪に陥ってしまいます。

主と共にどのように生きるか?

僕が経験上、現時点でわかっていることは「主と共にどのように生きるか?」によって自分が変わるということです。もちろん、聖霊の満たしや聖霊のバプテスマによって根本的に瞬間的に価値観が変わるという体験もあると思います。しかし、それはあくまでもスタートです。人が変わるのは主と共に生きている時だけです。

ある人は「いやいや、主はどんな時でも共にいてくださるよ!」というかもしれません。確かにそうです。主はどんな時でも共にいてくださいます。しかし、問題は「あなたは主と共にいますか?」に尽きるのです。案外、主は扉の外に立っていても締め出しているということが多いのだと思っています。

私が主と共にいたい

これから書くことは僕自身への自問です。

自分のしたいこと、やりたいことを優先していませんか?自分のほうに主を引き付けようとしていませんか?そうではなくて、羊が羊飼いの声を聞いてついていくように主についていっていまか?都合よく主を求めていませんか?主を求めている時だけを見て、いつも自分が主を求めていると思い込んでいないですか?

何度も書きますが、確かに主は共にいてくださいます。しかし、それでは人は変わりません。人が変わる時は「私が主と共にいたい」と望み、実際にそのように生きている時だけです。

主と共に生きるのが上手な人

もし人が主と共に生きたいと思わないなら、人はすぐに古い自分に戻ってしまいます。

つまり、キリストにあって変えられ続けている人というのは、主と共に生きるのが上手な人です。それは、御言にもあるとおり、自分の命を捨て十字架を負うている人です。そういう人こそが主と共に生きている人だと思います。

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