0924_自分自身が神と共に歩みたがっていないということに気づかないクリスチャン

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聖霊によらなければ

僕は様々な経験を通して、クリスチャンというものは本当に聖霊によらなければ正しく生きることはできないということを体験してきました。聖霊によらずに信仰生活をするととても恐ろしい状態に陥いります。

一つは主が共にいてくださっていると思っているだけで実際は1人で生きてしまっていること。もう一つは、自分には悔い改めるべきことがあるにも関わらず、自分は問題ないと思っているということです。

神が離れたことを知らなかったサムソン

1つ目は旧約聖書に出てくる14人目の士師であるサムソンが当てはまります。彼は生まれた時からナジル人として育てられ特別に神様に選ばれた人でした。選ばれた理由はイスラエルを救うためです。彼には神様の特別な力があり、その力で多くの敵を倒しましたが、一つ欠点がありました。

それは、神の言を軽んじる生活を長く続けていたということでした。死体には触れたらいけないにもかかわらず、彼は死体に触れることすらします。敵であるペリシテ人に行為をいだきます。彼は「自分のやりたい」ように生きたのです。

神の言を軽んじ続けた結果は、ナジル人としての特別な力を失い敵の手に落ちるということでした。彼は「主が彼を去った」ということを知らなかったのです。まだ自分には力があると思っていたのです。

神と歩みたくないが歩みたい!?

これはクリスチャンにも当てはまります。自分は神とともに歩んでいると思っているだけで実は歩んでいないことがありうるということです。「いやいや、神はいつもともにてくださる愛のある御方だ。」というのも事実です。しかし、問題は「自分自身が神と歩んでいない」ということです。不思議なのは、自分が神と歩みたがっていないということに気づかないことがあるのです。

自分のやりたいことはしっかりやって、必要なときだけ神様と歩もうとするのは主従が反対になっています。神様との関係を自分の都合のいいように使おうとしているのです。しかし聖書はこのように言います。

しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
ヨハネⅠ1:7

自分自身も光の中を歩むということが、主と共に歩むということです。

聖霊が正しいところに戻してくださる

僕自身は、自分でも不思議なのですが、時に自分が神と歩みたがっていないということに気づかないということがあります。

世の影響を強く受けたり、人の言葉に左右される時に気づかない間に心が主から離れてしまうことがあります。恐ろしいのは、聖書を読んでいてもなかなか気づけないことがあります。だからこそ、祈りの中で聖霊に教えて矯正してもらう必要があります。聖霊の働きこそが、人に悟りを得させ、正しい道に導き、人を神に戻すことができるからです。

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