1461_聖書で同じ箇所を何度も読んでいるのになぜ毎回教えられることが変わるのか?

初めて教えられた

聖書を読んでいて不思議に思うことがあります。それは何度も読んでいるにもかかわらず「初めて教えられた」ということが少なくないからです。去年も同じ箇所を読んでいるのに、去年は何も思わなかった箇所に今年は教えられるということがあるのです。それはなぜでしょうか?

一つは去年の自分と今年の自分が違うからです。1年経過したということは微差の積み重ねかもしれませんが信仰的に1年前よりも信仰的には成長しているはずです。自覚はできていないかもしれませんが、主にあって間違いなく成長できていると信じています。むしろ成長していないというのであればそれは未熟児であって信仰的には異常な状態だと認めざるを得なくなります。

ですので、すべてのクリスチャンは主にあって日々必ず成長していると信じます。

受け手と語り手

次に、去年読んだ時と僕の状況や状態が違うからです。聖書を読む時の状況や状態が違うと教えられることも異なります。たとえば忙しくて心に余裕がない時に読むのと、比較的平穏に過ごせている時に読むのとでは受け取り方が変わります。心を十分に主に対して開けているかどうか?何か罪を犯して心が頑なになっているか?などの要因にも左右されます。これは受け取る方の変数です。

一方で主が語られる内容も変わります。たとえ同じ聖書箇所であっても主はその時々のレベルやステージ、またニーズに応じて語られる内容を変えられると思います。時に厳しく、時に優しく、時にレベルを上げて、時にレベルを下げて、様々なことを教えてくださいます。

このように受け手と語り手の変数によって「初めて教えられた」という体験が起きるのだと思います。この中で自分でコントロールできるのは受け手の変数です。語り手である主の変数は主が主権をもっておられるので人は関与できません。

受け手に求められるもの

そこで、受け手に求められるのは主に二つのことだと思います。一つは十字架の血潮で罪を洗い流してもらうこと、もう一つは心を主に開くということです。

一つ目は一番重要です。もし誰かを赦せてないとか苦々しい思いをもっている状態で聖書を読んでもまず入ってきません。それは心が汚れてしまっているので、聖霊が関与したくても関与できなくなるからです。だから聖書を読む前に悔い改めることがないかどうかを確認するのは大前提だと思います。

幼子が完全に母に信頼している心

もう一つは主に心を開くということです。これは不信仰な状態ではできません。主は良いお方、主は語り掛けてくださるお方という幼子が完全に母に信頼しているような心の状態です。主に全幅の信頼と安心感がある状態です。心を開いて聖書を読む時に主は語ってくださいます。

なぜなら、聖書は「マナ」であり、その日に必要な霊的な糧を人に与えられるものだからです。そして、すべてをご存じである主が聖書を通して必要な御言を語ってくださるのです。

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