原則知る前には戻れない
39年間生きてきて思ったことがあります。それは「知ったあとは知る前には戻れない」ということです。知るべきことは知り記憶に留めることは重要です。しかし、知る必要がなかったこと、あるいは知りたくなかったことに関しても、原則知る前には戻れないのです。
もちろん時間を味方につけることによって、一時的に忘却の彼方にやることはできるでしょう。しかし、何かの拍子に思い出されることがあるかもしれません。自分がどうてもいいと思っていることはすぐに忘れるものですが、体験の強弱、情報の重要度によっては忘れたくても忘れられないということがあります。
人間は「知りたい」と思う
人間は「知りたい」と思う生き物です。その本能ともいえる欲望はほとんど知ったあとのことは考えてないように思います。知りたいという刺激が入った時には反射的に瞬間的にクリックしたり、タップしたり、実際に行動することが多いのです。
Webの世界は何とかして僕たちの認知を奪おうとしてきます。また可処分時間を奪おうとしてきます。その理由はお金になるからです。人から認知を取れれば広告料が取れます。可処分時間を取れても広告料、時には課金までしてもらえます。
プロ相手に
そしてこれらの背後には行動経済学や認知の世界のプロがいます。つまり、一般の人たちがこれらの刺激に抗うことは容易ではないということを認めないといけないと思います。自分には克己心があるし、自己制御できるし、拒絶拒否できる力があると思ってしまうと、まんまと行動を起こしてしまうかもしれません。
そして、冒頭にも書いたように本能の赴くままに行動した時に、知ってしまう情報が自分が本当に知りたかったものなのか?はまた別の話です。僕はこれまでに少なくない失敗をしてきました。そのせいで知りたくなかったことを知り、多くの時間を溶かしてしまったように思います。みなさんも少なからず、知りたくなかったこと知ってしまった経験があるのではないかと思います。
神の平安
ではどうすればいいのでしょうか。自分にできることは簡単なことはそういった情報に近づかないことです。その周辺にも気を付けるということです。そして一つの工夫は、夜は気を付けるということです。これは1日が終わりに近づくにあたって疲労が蓄積し理性の判断力も落ちるためです。そういう場合は、相対的に本能で行動しがちになります。
それでも知りたくなかったことを知ってしまうこともあるでしょう。そういう場合は忘却の力を借りることもできます。それでも忘れられないなら、祈ることができます。それは聖書にあるとおりこのようなものを与えてくださいます。人知では到底計り知ることのできない神の平安が、僕たちの心と思いとをキリストにあって守ってくれるという真理です。
そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。
ピリピ人への手紙 4:7