0004_聖書を紛失した時に気づいたこと

僕にとって、生まれた時から聖書といえば、毎日目にする新聞よりも身近な書物だった。分厚い聖書を母はいつも内職の合間に読んでいた。時々、母の部屋から聖書を音読する声が聞こえてきてて、そっとドアの隙間から覗いて、子供ながらなにか厳かな雰囲気を感じ取ったのか、すぐにその場を離れた。

教会が主催する日曜学校では、創世記のまるまる一章やマタイによる福音書の山上の垂訓を暗唱させられた。また、聖書を読んでチェックをしたら、年に一回何かがもらえるというので、子供ながらに聖書を覚えたり、読んだりする教育も施してもらった。

聖書を初めて通読したのは、18歳の時で、進路に迷って、神様を自分の意志で求め始めた時だ。大学受験に失敗して、浪人生活をした時に3回通読して、好きな御言をノートに書いて覚えることをした。

中国に関わりを持ちたいと思った頃に読んだ本には、中国における文化大革命のときに迫害にあった中国人はマタイによる福音書をまるまる暗記して、たとえ、投獄されたとしても、神の言が血となり、肉となっているので、苦難の中にあっても神の言がいつも彼らとともにあったことを知った。

中国に行っていた時に、大切にしていた日本語の聖書をどこかに置き忘れてしまった。インターネット環境を整えていなかったため、ネットで読めないため、大切な日本語の聖書がなくなったことに恐怖を覚えた。その時に、初めて、今まで自分がこれまでに覚えた聖書をノートに書き出した。そうしないと、日本から送られてくるまでの間、日本語の聖書がなかったからだ。ノートに書き出した時、たったこれだけかと、暗唱していなかったことを悔やんだ。

聖書はただの書物ではなく、神の言だ。僕たちを心底愛してやまない神様からの語りかけ。聖書には魂を救う力がある。聖書は何よりも価値のあるもの。聖書は動かぬ灯台のようなもの。人生の羅針盤。命のパン。足の灯火、我が道の光。

寄留者、また旅人として、この世に生きているけれど、聖書を通して、意識を御国にはせて、そこを目指す。時には引き寄せる。天でも行われるとおり、地にも行われるようにと。また、聖書によって、御国の前味を味わったり、神様に教えられたり、恵みに涙したり、また、時には、拒絶したり、読み流したり、スルーしたり。

この御言は谷の底にいた時に、この御言は山の頂にいた時に。聖書の一つ一つの言に過去の神様との思い出がいっぱいつまっている。これからも、神様の言に頼りつつ、神様と共に歩む。財布をなくすよりも、スマホをなくすよりも、聖書をなくすことのほうが大きな損失だ。そんな気持ちで聖書を大切にする。

イエスは答えて言われた、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
マタイ4:4(口語訳)

今日もありがとうございます。