国際社会ができること
ウクライナ情勢が依然緊迫しています。病院や学校が爆撃されたりして、多くの市民が犠牲になっている様子を見ると心が痛みます。国際社会も経済制裁によって、圧力をかけているようですが、即効性があるわけではなく、被害が拡大しています。
もちろん、NATOも直接軍事作戦に関与することはできると思いますが、そうなるとWW3に発展しかねないので、「できるのにしない」のです。非常に辛いですが、ウクライナの人々や国際社会は、WW3だけは避けるべく、忍耐が必要とされているのだと思います。
愛は忍ぶこと、耐えること
今日読んだ聖書にこのような言葉がありました。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
コリントⅠ13:7
この箇所は結婚式でもよく朗読される「愛は寛容であり、愛は情け深い。〜」と始まるところに記載されています。非常に興味深いのが、最初に、忍ぶこと、その間に信仰と希望が入り、最後は再び耐えることが記載されているのです。すなわち愛は忍耐であるということがわかります。
イエス様は十字架上で群衆や兵卒に罵られました。例えば、「お前が神の子なら今すぐ十字架から降りろ!バカ!」というような言葉もかけられます。もちろん、イエス様もそれをやろうと思えばできるのですが、「できるのにしない」のです。
イエス様は「できることをしなかった」
イエス様は、いよいよ兵隊たちに捕縛されようとしているシーンでこのようにおっしゃっています。「それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。マタイ26:53」
やろうと思えばできるのにしないのです。その理由は、推察するに、イエス様は今の苦しみからの解放されることを望む短期的指向ではなく、永遠の命を与える罪の赦しを望む長期的指向に立っておられたからだとおもいます。イザヤ書にはイエス様に関する預言が記載されています。
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
義なるわがしもべはその知識によって、
多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
イザヤ53:11
十字架の死刑による、長時間による究極の肉体的苦痛よりも、弟子に裏切られ、母マリアを残し、人々に罵倒される精神的苦痛よりも、十字架の周辺が暗闇に覆われるほどの罪を背負い、天の父に拒絶され、見放される霊的苦痛よりも、未来の僕たちの救いを見てくださっていました。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
僕は短期的指向しかできないので、今日もイエス様に所に駆け込んで、イエス様の視点で人々を見れるようにならせていただきたいと思います。
■イエス様は苦痛の中で「できるのにしない」ことを選択してくださった
■それは、長期的指向に立って、現在の僕たちの罪をゆるすためであった
■そのイエス様と共にいれば、イエス様の視点(霊的な視点)で人々を見ることができるようになる