主は真実な心を求めておられる
先日のブログで主は嘘偽りのない真実な心を求めておられ、礼拝ではその心が大切だと書きました。
1452_福音派の教会は古典的な聖歌で賛美し、ペンテコステ派はワーシップソングで賛美する
そのことは聖書のあらゆるところに書かれています。
見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。
詩篇 51:6
「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。 おのおのに、その道にしたがい、 その行いの実によって報いをするためである」。
エレミヤ書 17:10
人は偽る
人間関係であれば隠し通すことができます。しかし、主は心を探られすべてをご存じです。その主に対して隠すことなどできるはずがありません。しかし、人は偽るのです。これは僕自身の経験からも言えます。
心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。
エレミヤ書 17:9
知識では主は全知全能であり、僕のことをすべてを知っていると理解しています。しかし、霊的に敏感でなくなると「隠し通せる」、あるいは、「人にはバレていないから大丈夫だろう」と思ってしまうことがあったのです。それは肉の力が強くなっているからです。
肉と霊における真実な心
ここで肉と霊における真実な心を考えたいと思います。真実な心とは正直な心とも言えます。じゃあ、「主の前に正直な心が大切なんだから、主の前に正直にありのままで生きよう」というのはどうでしょうか?例えば、正直な心で「私は弱いです」「私は駄目です」「私は罪人です」というのはどうでしょうか。
もちろん、自分の弱さを認めることは間違っていません。しかし、もし、それで終わるのであれば、それはただの肉における正直になってしまいます。肉における正直は主が求めておられるものではありません。主が求めておられるのは霊における正直です。
信仰をともない御言に基づくもの
霊における正直とは聖霊に満たされた心です。それはへりくだった心です。たしかに、その心は「私は弱いです」「私は駄目です」「私は罪人です」というかもしれません。しかし、そこでは終わりません。霊における正直な心は「主が共にいてくださるから私は強い」、「キリストにあって私は立つことができる」、「イエス様の十字架によって赦されている」と信仰を伴うものだと思います。それは「悲しみ」一つとってもそうです。
神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。
コリント人への第二の手紙 7:10
僕は主の前に正直にありたいと思う時に、この正直な心は肉からきたものなのか?霊からきたものなのか?を考えるようにしています。もし、信仰をともない御言に基づくものであればそれは霊におけ主が喜ばれる真実な心であると思うからです。