1524_言語化できない時の非言語的な祈り

言語化すること

僕はこれまで「言語化」ということにこだわってきました。それは言語化することによって見えなかったものが見えるようになり、ぼんやりしていたものが精緻化され、不要なものが排除されてデトックスされ、頭の中だけではなく心の中も整理されるからです。

また、言語化することで自分が今何を考えているのか?また自分が何を大切にしているのか?また自分は今、神様に対して自分に対して正直なのか?などが明らかになってきます。このブログは自分を誰かに見てほしいというわけではなく、完全に自分のためだけに書いてます。

言語化しないと伝わらない

僕が若かった頃は「言語化しないと伝わらない」という強い信念を持っていたので、「思ったことは伝える」というようなスタイルでした。しかし、結婚して夫婦生活をする中でようやく言語化しなくてもいいという状況を知るようになりました。

確かに伝えた時はすっきりします。しかし、それは自己中心の極みです。伝えられた相手のことを考えた場合、「伝えなくてもいいこともある」ということをようやく知ることになりました。

言語化できないこともある

さらに最近はこう思うようになりました。それは「言語化できないこともある」ということです。これまでは言語化してから、相手に伝えるか伝えないかの判断をしていました。しかし、どうしてもこうしてもあまりにも難しい状況なので整理もできないし、言語化もできないことがあるということを知ったのです。

僕にとって言語化すらできないというのは初めての経験で、どうしていいのか全くわからなくなってしまいました。つまり、それは神様に対してどう祈っていいのか?何を願っていいのか?がわからなくなってしまったのです。神様に対する飢え乾きはありますが、それを言語化できなかったのです。

非言語的な祈り

しかし、そのような時でも祈りができるということも知りました。その一つは「切なるうめき」です。言語化できなくても非言語的な祈りはできます。それは、ただ跪くことであったり、手をあげることであったり、涙を流すことであったり、うめくことだけかもしれません。主の前に出る時にそれらも祈りとなるのです。

また、もしペンテコステ信仰があるなら、異言の祈りもできます。

僕にとって言語化とは自分の武器でもあると思っていました。しかし、今はその言語化の武器を捨てて主の前に出ています。

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