もし願いが叶うなら
もし願いが叶うなら、あなたなら何を願うでしょうか?成功、権力、お金、健康、能力、事業、配偶者などなど、実際に真剣に答えるとなるとどこか遠慮しそうにもなります。
自分のことはいいから、例えば、自身のこどもや友人の病が癒やされることを望む人もいるかもしれません。あるいは、もっと大局的に考えて、世界の平和、地球環境の回復などを願う人もいるでしょう。
もし願いが叶うなら…聖書に出てくるイエス様と出会った人たちは、実際世界平和などは要求していませんでした。あったかもしれませんが、記述はありません。彼ら彼女たちが求めたものは、もっと具体的で身近的、本質的で利他的な願いをイエス様にお願いし、その願いを聞いてもらいました。
利他的な願い
自分自身はどうでもいいが、もし願いがかなうなら、イエス様にこどもや部下を癒やしてほしいと願い出た人はたくさんいます。福音書に登場する百卒長は頼みにしていた部下が癒やされるように求め、癒やされました。ある人は自分の娘が病気にかかっていたところを癒やしてもらいました。また、足の不自由な友人をイエス様のところに担いできて、友人が癒やされるように求めたものもいました。
彼ら彼女らの願いが聞かれたのは、神様の御心にかなっていた。また、願った者たちに信仰があり、切実で利他的であったからだと思います。
本質的な願い
目が見えずに物乞いをして生きるしかなかったバルテマイはイエス様が通りかかった時に必死に叫び、イエス様を呼び止め願い求めました。金さえあれば、物乞いしなくても生きていけます。雇い人を雇って自分に奉仕させることだってできます。しかし、彼が求めたことは目が見えるようになることでした。
イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。
ルカ10:51
目が見えるようになっても自分で生きるために働かなければなりません。これから文字を覚えたりもしなければなりません。しかし、彼は目が見えるようになることを求めたのです。それは実際の肉体の目が見えるようになるだけでなく、霊の目でイエス様を見るという目が開かれることも含まれています。彼が求めたことは非常に本質的なことでした。
幼子の信仰のある願い
旧約時代、イスラエルの繁栄が地に落ちた頃、神様の恵みにあずかったのはイスラエルの民ではなく、異邦人であるナアマン将軍でした。彼は信仰を持って預言者エリシャのところへ行き、「川へ行って洗いなさい」と雑にあしらわれたにもかかわらず、信じて、実際にそのように行い癒やしを体験しました。
もしかすると、権威ある将軍が一宗教指導者のいうことを聞くのはプライドがゆるさないことかもしれません。しかし、彼は謙虚な心で、そして切実な思いで信仰を持って祈り求めたのでした。
わたしに何をしてほしいのか
僕だけかもしれませんが、誰かの面前で、「もし願いがかなうなら?」聞かれたら、非常に抽象的で壮大な願いを言ってしまいそうになります。例えば、ウクライナに平和がくるように、ミャンマーに平和が訪れるように、罪人が悔い改めるようになどです。
こういった願いも大切ですが、聖書を見ると、身近で、具体的な願いをイエス様は求めておられるのかなと思いました。それが幼子の信仰があり、利他的であり、御心にかなったものであれば、喜んでその願いを叶えてくださるのだと思います。
■しかし、イエス様のところに来た人たちは身近で具体的なことを要求していた
■遠慮することなく、幼子の信仰で願い求めたい