忘却する
日常生活を普通に送っていると絶対に忘れはいけないのですが、忘れそうになることがあります。それは「主が恵み深い」ということです。聖書で何度も書かれていて、何度も説教で聞いてきて、何度も実生活の中で主が恵み深い方であると体験してきているにもかかわらず忘れそうになるのです。
「恵みによって救われた」という御言を信じているにもかかわらず、なぜか「行い」によって裁かれているのではないかと思ってしまっているのです。それは、日々の生活が恵みによって救われたのちも救いの達成に努める必要があり、神様が聖なるお方であるように自分も聖なるものになる必要があり、神の似姿に変えられないといけないという御言に従いたいという純粋な気持ちからだと思います。
行いによらないのに
しかしながら、「行い」によって裁かれると思うのは、僕自身が恵みによって生きていないからにほかありません。主は恵みによって救いの達成に務めさせてくださり、恵みによって聖なる者とさせてくださり、恵みによって神の似姿に変えてくださるのです。
日常生活、仕事、家庭、育児、奉仕などやることが多くなればなるほど、人間の目線は恵みから行いにずれていきやすくなるのではないかと思います。やること、やらなければならないことを考えすぎて、僕が主のために「やること」「やらなければならないこと」に重点が置かれることにより、主の恵みを忘れてしまうのです。
恵み深いお方
聖書には多くの神が恵み深いことが書かれています。
主をほめたたえよ。
主に感謝せよ、主は恵みふかく、
そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
詩篇106:1
あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。
ペテロⅠ2:3
主は恵み深いお方です。それは言葉だけで知る知識ではなくて、霊において既になされた十字架の御わざであり、今も生きておられるイエス様の今注がれている恵みにほかなりません。イエス様は昨日も、今日も、いつまでも変わることのないお方です。主の恵みも永久に変わることがないのです。
祈ること
主に祈ります。「ただ恵みによって日々歩ませてください。ただ恵みによって日々生かしてください。そして、行いによる生き方から解放してくださり、いつも変わることなく、主の恵みの中にとどまり続け、主が恵み深いお方であることに讃美と感謝を捧げ、そして、恵み深い主イエス様を伝えることができますように。」