0527_聖書の言を覚えるのは人間側の務め

聖書の音読

最近ずっとやっていなかった聖書の音読を再開しました。音読は魂が恵まれるのに効くのはわかっていても、なんだか朝はまだエンジンもかかってないし、声を出して聖書を読むのもなんだか面倒だなと思ってしまっていて、やめてしまっていました。

個人的には2週間ほど前からの怒涛の一週間が終わり、秋らしい日も少なからずあって心にも余裕が生まれ始めていました。久しぶりに音読しようと思って詩篇を音読すると、あら不思議、垂直立ち上げで魂が引き上げられる感覚を覚えたのです。

覚える目的

これまでずっと聖書の言を覚えて、色々な必要な場面で使えるようになりたいと思っていました。それは聖書を引かずにも適切な御言葉を口頭で出せる力です。具体的に言うと、誰かと話をしている時や手紙を書いている時、あるいはプライベート、パブリックな祈りにおいて聖書の言葉を使うことです。

それを実行するために必要な大前提は、聖霊に導かれるということです。なぜなら、ペテロがペンテコステの日に聖霊を受けて適切な御言を思い出して、群衆に語り出すことができたからです。だから、必要なことや語るべきことは聖霊が教えてくださるというのは間違いありません。

人間側の務め

しかしながら、やはり覚えていないとどれだけ聖霊の導きや力があっても出せないのです。引き出しに何も入っていなければ、適切な時に取り出すこともできません。だから人間側に必要なこととしては、御言を蓄える。覚える。暗唱する。打ち込む。さらにそれを忘れないようにメンテナンスするというのは当然のことのように思います。

だから、今年ももう残り4ヶ月になってしまいましたが、今年も御言を覚えることと覚えた御言を忘れないようにメンテナンスしようと思います。大学受験の時には英単語や古文の単語を大量に覚えるために繰り返し見直せるノートを作ったり、絶対に目に入るように机の上に書いて忘れないようにしていました。

慕う心をもって

そういった工夫や努力がないとなかなか、日常の引力にひっぱられてしまい、まぁ覚えなくてもいいかと甘えの心が入ってきてしまいます。覚えるためには覚える必要があるという明確な動機と意思が必要です。

とはいいつつも、機械的に聖書の言葉を覚えるのではなくて、神様の恵みに感謝して、イエス様に近づきたい一心で、イエス様を愛する気持ちで取り組んで生きたいと思います。

おっさん
■聖書の言を覚えるのは人間側に必要なこと

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