完全な愛は恐れを取り除く
今朝子供を保育園に送り届けて冷水シャワーを浴びている時にこのような祈りをしていました。
「聖書には人を裁くな。自分が裁かれないためである。自分が裁くその裁きで自分も裁かれあなたが計るその計りで自分も計り与えられるであろうとありますが、僕はすぐに高慢になって人を裁いてしまいます。僕には人を裁く資格がありません。どうかイエス様の血潮でこの汚い心をきよめてください。イエス様の血潮によって雪よりも白くしてください。」
この祈りを終えた時に一つの御言が降りてきました。それはこれです。
完全な愛は恐れを取り除く。
完全な愛とは天の父の愛
この御言は神様の愛こそが人間の中にあるあらゆる恐れを取り除くと理解されています。ここで大切なのは完全な愛だということです。愛には男女間の愛であるエロスや、その他、友愛、家族間の愛などを示すエストルゲやフィレオの愛がギリシャ語では細分化されていますが、完全な愛はアガペーの愛であり、神の愛のみです。
少し長く人生を生きればエロスの愛だけでなく、家族の愛ですら限界があることを知ることになると思います。しかし、神の愛こそが人間の中にあるあらゆる恐れを取り除くことができるのです。つまり、神の愛に満たされる時に本当の平安が与えられるということです。
恐ろしいこと
僕がこの御言を黙想して思ったのはそういった恐れを取り除くだけではないということでした。それは、神様が僕に対して恐ろしいと思ってることも完全な神の愛に満たされる時になくなるということです。これはどういうことでしょうか?
最初に書いた恐れは人間が主観に感じる恐れです。しかし上述した恐れは神が感じている恐れです。つまり、僕が高慢になったり人を裁くというのは神様の目か見たら恐ろしいほどのものだと気づいたのです。
もちろん、僕はこの聖書箇所の原語で調べていないし、解釈が飛びすぎているかもしれません。しかし、実際僕が日々生きる中で神様が恐ろしいと思うようなことを僕は考えたりしたりしているのだと思いました。
神の愛で満たされるとどうなるのか?
しかし、神様の完全な愛に満たされる時にそういった神が恐ろしいと思っている思いも消え去ります。なぜなら、完全な愛とは十字架の愛であり、高慢になったり人を裁いたりするどころか、それを受入れ許しを取りなすものだからです。