「旅の恥は掻き捨て」ということわざがあります。
旅の恥はかき捨てとは、旅先には知人もいないし、長くとどまるわけでもないので、普段ならしないような恥ずかしい言動も平気でやってしまうものだということ。
例えば、内気の男性が旅先のバーで普段絶対言わないようなくさい言葉で女性にアプローチをかけたりするような場面が想像できます。また、少しニュアンスは変わりますが、外国語学習者が旅先言語で話さざるを得ない状況におかれ、恥をかいてもいいから意思疎通を図ろうとすることも考えられます。
僕は海外ですと、もっぱら中国大陸しか旅行したことありませんが、確かに旅先では、普段よりも大胆になれます。ドラクエさながら仲間を加えるように、旅先で出会った老夫婦と数日行動を共にしたり、野宿覚悟でスケジュールを組んでみたり、いい意味で、「普段のストッパー」みたいな物が外れて普段よりも大胆になれたりします。
最近強く意識していることは、聖書的価値観によると人間は来たるべき御国を求めて生きている者であり、この世では旅人であるということです。
これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。
ヘブル11:13-15(口語訳)
聖書に出てくる信仰者たちは、すべからず、天のふるさとを求めて生きていました。神に召されたのちも困難にぶち当たることは多々あったでしょうが、過去の生活には戻ろうとせずに、地上では旅人であり、寄留者であることを宣言しつつ、天を求めていました。
もし、この現世界が旅先であり、ふるさとは天にあると信じるのであれば、「旅の恥は掻き捨て」と同じように、変なやつと思われようが、怪しいやつと思われようが、もっと大胆に福音を伝えてもいいのではないかと思うようになりました。
「語るは一時の恥、語らぬは一生の恥」と心に刻んで、生活をしてこうと決心しました。
しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。
ヘブル11:16(口語訳)