0574_あの時自分のやりたいようにできなくてよかった

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自分らしさがなくなった時

今でこそそんなことは思いませんが、以前はクリスチャンになって自分らしく生きられないことに苦しんだことがありました。僕は高校生の時から音楽で自己表現するのが好きだったので、僕にとっての自分らしさは音楽によってのみ表現されるものでした。

ただ、救われてからは自分の音楽に対する思いを主にお捧げしようと思い、大学ではサークルには入りませんでした。もっぱら教会活動に打ち込み、教会での礼拝賛美の奉仕などに専念しました。

かたや高校の時にバンドをやっていた友人たちはすべからず大学でバンドを組んでバンド活動をしたり、オリジナルの曲などをレコーディングしたりと活発に活動していました。それを横目で見ていた僕は羨ましくて仕方がありませんでした。

当時の情勢

幸い当時の教会はHillsongよろしく、コンテンポラリーワーシップが一世を風靡していたので、フルバンドでの賛美チームが当たり前になっていました。しかし、僕が表現したいのはそういったコンテンポラリー的なものじゃなくて、もっと激的でエモーショナルで情熱的な表現方法でイエス様に対する思いを表現したいと思っていました。

特に当時海外ではHillsong UnitedやPlanetshakersなどが重低音志向の激しい曲による賛美で若者たちの心を掴んで急成長していました。世界の教会の流れから見た場合、方法論でいうと、一見それに間違いないように思えていました。

大切なことを学んだ

しかし、今では自分がそういった流れに乗れなかったことに感謝しています。もし、僕が当時自分のやりたい方法で自分の好きなジャンルで神様の働きに関与していたら、きっと高慢になって大きな失敗をしていたでしょう。たとえ、それがうまくいっていようと、うまくいっていなかろうと、必ず神様の前に高ぶっていたと思うからです。

2012年に訪問した中国の小さな家の教会にはギター一本すらありませんでした。みんな思い思いに歌うので、音程もとてもくるっていました。しかし、そこには天国のような主のご臨在がありました。本当に心が温かくなる、ずっとここにいたいと思えるような主のご臨在です。

最も大切なこと

今では、「若い人には若い人に受けるジャンルの賛美が必要だ」などとは思いません。現代人が救われるにはある程度のクオリティーが必要だとも思いません。そういったジャンルは世に任せたらいいのです。クリスチャンがすべきことは霊による賛美です。大切なのは聖霊の働きだけです。ゼカリア書にかかれているように、人間の能力ではなくて、主の力によって救いはもたらされていくのです。

万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。
ゼカリヤ4:7

おっさん
■大切なのは方法ではなく、ただ主を知りたいという思い

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