霊的な生活を支えるもの
僕には聖書以外にも大切なものがあります。それは何が何でも失いたくないと思っているものです。それは僕の霊的な生活を支えるものです。そして主との交わりにも欠かせない大切なものです。僕はこれまでの人生で何度もそれに励まされてきました。
それとは、黙想、暗唱するために記載された自分だけの御言ノートです。教えられた時、語られた時、覚えたいと思った時、そのノートに御言を書きこんできました。そのノートが今は4冊ほどあります。
祈りの定義
このノートは祈りの時に使います。前提として祈りの形式は幅が広いです。僕の中で祈りとは、主に近づく祈り、主との交わり、とりなしの祈り、御言の告白、聖書を読むこと、黙想すること、賛美をすること、すべてが含まれます。霊的修養という表現もあるかもしれませんが、僕の中では主との個人的な交わりという言葉が一番しっくり来ています。
また祈りとは自由なものでもあります。なぜなら祈りは聖霊の導きの中でなされるものだからです。時間的制約がある場合、主に近づく祈りだけをして終わる時もあります。そういう場合は、また時間をとって、とりなしの祈りや御言の告白ができるように祈りの時間を確保していきます。
御言を告白する
前提が長くなりましたが、祈りに属する御言の告白という形式の中で僕は自分だけの御言ノートを使って声を出して告白しています。4冊は時系列になっているので、最初から順番に聖霊の導きに身を委ねつつ、信仰によって宣言していきます。その中から主の語りかけを待ちます。
時に語られる時もあれば、語られない時もあります。それは当然です。僕がピックアップしている御言は部分的だからです。しかし、語りかけがなくても御言を宣言することに意味があります。また、それは自然と暗唱聖句にも繋がります。これは霊的にかなり恵まれる方法だと思っています。
永遠に変わることのない御言を褒め称える
もし、このノートがなかったら、困難な時、不安な時、苦しい状況の時、どのように立ちあがることができただろう?と思うからです。もちろん、聖書があります。聖書こそが大切です。聖書で十分です。しかし、言いたいことは分厚い聖書の中から必要な主の語りかけを待つというのは、通読している習慣がないとなかなか難しいと思います。
であれば、普段の通読から語られたことをノートに書いておけば、何かあった時にその御言にすぐアクセスすることができます。とはいいつつも、ノートはただの手段です。僕はただ主の御言に感謝し、その永遠に変わることのない御言を褒め称えます。