1370_どれだけ御言を暗唱していてもインプットだけでは意味がない

信仰生活のインプットとアウトプット

信仰生活にとってアウトプットは非常に重要です。アウトプットがあるからこそインプットが強化されます。アウトプットには教会における奉仕だけでなく日常生活、社会生活の実践などが含まれます。またインプットには日々の祈り、主との交わり、聖書を読むこと、黙想、暗唱聖句、聖書の学びなどが含まれます。(厳密に言えば主ととの交わりや礼拝はインプットと言う表現は正しくないとおもいます)

例えば、聖書が「互いに愛し合いなさい」と言っていても実践する場がなければ実行することはできません。そして、聖書は自分を愛してくれる人を愛したところで何の意味もないと教えてます。つまり、自分がなかなか愛せない人が周りにいることは霊的な側面で見れば非常に感謝なことだとわかります。なぜなら、実践するアウトプットの場が与えられているからです。

インプットはあくまでのインプット

これは僕だけかもしれませんが、僕はよくインプットの時に自分ができていると思ってしまうことがあります。例えば、聖書で御霊の実の箇所を読んでいるとします。聖書を読む時はだいたい心が平穏です。だから、愛、喜び、平安、寛容などとみると、自分は御霊の実を結べていると勘違いしてしまうのです。

しかし、それは全くアウトプットの伴っていないただの勘違いにすぎません。御霊の実が結べているかどうかは実践によって明らかになるのです。それは、机上のテストに合格した製品が物理的な負荷テストを全くしていないのと同じです。

極端なことを言えば、どれだけ御言を暗唱していてもインプットだけでは意味がないということです。

アウトプットできる実践の場

だからこそアウトプットできる実践の場は大事なのだと思うのです。クリスチャンになったら、毎日ずっと御言を読んで、賛美して祈って主と交わりをして生きていたい!と思ったりもします。世の煩わしさから解放されたいと願うかもしれません。しかし、実際はそういった場こそが主の恵みを見る場所になっているのだと思います。

毎日機嫌よく仕事や家庭生活を送ることができれば幸いです。しかし、実際は過度な忙しさの中で余裕をなくし、心の平穏さを失いそうになることがあります。そういう時に流されるか?主を見上げるか?の二択を迫られるのだと思います。

恵みの場に変える事ができる人

主を見上げることができる人はアウトプットの場を恵みの場に変える事ができる人です。実際に主が共にいて下さる時に、その場所は恵みの場所へと変えられます。今年も残りわずかとなりました。実践の場で恵みの場所を引き出す者でありたいです。

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