0404_三開四閉ではなく、七開無閉の生き方

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心の扉を主に開けているか

三寒四温という言葉があります。

冬季に寒い日が三日ほど続くと、その後四日間ぐらいは暖かいということ。また、気候がだんだん暖かくなる意にも用いる。

引用元:dictionary.goo.ne.jp

この言葉から「三開四閉」という言葉を造語しました。意味は一週間のうち、3日間は心の扉を開いて主をお迎えするが、4日間は心の扉を閉じて主を外に立たせる生き方を表しています。もしかしたら、日曜日だけ主を受け入れて月曜日から土曜日までは自分中心に生きて、一開六閉という生き方をしている場合もあるかもしれません。

というのも、他のクリスチャンの方はわかりませんが、僕は主と共に歩んでいないにもかかわらず、主が共におられると勘違いして、間違った判断や行動をしてしまうことがよくあるからです。主が共におられるという言葉は非常にあいまい、かつ主観的なものなので、気をつけないと主と共に歩んでいるつもりになる危険性があると日々実感しています。

主が共におられること

聖書ではあらゆるところで、共にいるということを何度も語っています。例えば、旧約の時代、主はモーセには「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう。」と語り、ヨシュアには「強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない。」と語られました。また、新約の時代、イエス様は、弟子たちに対して、「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。」とおっしゃいました。

間違いなく主は共にいてくださるお方です。しかし、自己中心的な生活をしていて、心では神様に喜ばれない思いを抱いたりしているる場合もあります。主が共にいてくださると信じていても、実は自分は自ら自分の心の扉を頑なに閉じていることがあるのです。例えば、僕は「ここまでは主にお捧げます。でも、ここからは僕の大切なものだから、イエス様はいれない。」ということを平気でしたりしているのです。

聖書にはこのような言葉があります。

見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
ヨハネ黙示録3:20

僕は、時には戸の扉を開けて主を迎え入れますが、時には閉ざすことをしているのです。

ドアを開けるには悔い改めが必要

主はこの言葉の前にこのようにおっしゃっています。

すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。
ヨハネ黙示録3:19

主は無理やり僕の扉をこじ開けて入るようなことはされません。主は強行突破して入ってこられることもありません。ただただ忍耐をもって、僕が悔い改めて、扉を開けるのをまってくださっているのです。もし、僕が悔い改めてすべてを明け渡して、心の扉をあけるなら、主は入って、食を共にしてくださいます。麗しい主とのもっと交わりをしたいと思うので、引き続き、GWは祈りに徹したいと思います。

おっさん
■ともすれば、主が共におられると勘違いして生活をしてしまう可能性がある
■それは人間側が主を外に出して扉をしてしまっているから
■しかし、もし悔い改めて心の扉を開けるなら主は喜んで心の中にきてくださるだろう

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