神が働かれるところ
先月から色々な人と会っていまが、改めて聖書の神様は人間との関わりの中で働いてくださるお方だと思うようになりました。一般的な宗教の場合だとどうでしょうか。もしかしたら、一心に自分の聖さだけを追求するのであれば、山に籠って祈りの御言に専念したほうが心にも余計な雑念も生じないのでいいかもしれません。また、キリスト教徒は教会を通して神に仕える恵みが与えられています。ともすれば、自分に与えられた奉仕をしっかりやっていればいいと思うかもしれません。
しかし、福音書でイエス様の活動を見る限り、イエス様ご自身が人間との関わりの中で働かれたことがはっきりと書かれています。
大きな恵み
僕自身、家で一人で聖書を読んで祈っている時ももちろん恵まれますが、人間関係の中で神様が働かれた時の恵みには到底及びません。こういったことは主観的なものなので、なぜ感じる恵みに差が生じるのかはわかりません。おそらく、イエス様ご自身が今会っている人を心の底から愛してくださっているということがよくわかるからだと思います。
もし、誰かに会う前に、その人のために祈り、また交わりをイエス様の名によって始めるならば祝福されるのだと思っています。この人間関係の中で働かれる神様の恵みを味わうと自分自身のために祈るのは馬鹿らしくさえ思ってしまいます。なぜなら、人間関係の中における神様の恵みは何物にも比べることができないからです。
きれいごとに思えるけれども
だからこそ、仕事、家庭、教会、日常生活あらゆるところで関わる人のために祈りたいと思いました。それは僕自身がイエス様の愛で周りの人を愛せるようになりたいからです。そして、イエス様の恵みに与りたいからです。正直、僕自身も、こういったことはきれいごとのように思ってしまう心がないわけではありません。
しかし、これをきれいごとと思わすに信仰を働かせていきたいと思っています。この、朽ちる者、卑しい、弱いでさえも、イエス様を心の中にお迎えすれば、イエス様が僕を支配してくださってその恵みに僕も与らせてくださると信じたいからです。
もし、その人間関係がイエス・キリストにあって祝福されていくのであれば、その人たちもイエス様の恵みに与ることができると信じています。それが結果的に救いが周りに広がっていくと思いました。