1005_この世のものもキリスト教も乾いては満たされての繰り返しじゃないのか?

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満たしについて

今年は信仰生活において大きな変化がありました。それは神と共に生きるということが少しどういうことなのか体感的にわかったからです。僕にはこれまで一つの疑問がありました。それは「満たし」に関してです。この世のものは満たされても、またすぎに乾きます。どれだけ美味しい料理を食べてもまたおなかは減ります。どれだけお金を稼いでも次から次へとほしくなります。どれだけの権力を手にしても満足できなくなるのです。

それは、歴史や過去の偉人を見ればわかるもので、誰でも物質的なものから永遠に続く満足を得ることなどはできないのです。

キリスト教の満たし

では、キリスト教はどうでしょうか?イエス・キリストがすべてであり、イエス・キリストにすべての満たしがあります。これに関しては僕は完全に同意します。しかし、一度、イエス・キリストを求めて満たされたらそれで終わりでしょうか?実際は、求め続け、飢え乾き続ける過程がほとんどです。もちろん、主は飢え乾きに毎度必ず答えてくださるお方です。決して裏切ることのない真実なお方です。

僕の疑問は、「満たされてもまた飢え乾く」ということに関してはこの世と変わらないのじゃないか?というものでした。そういったことを考えたりしながら生活する中で教えられたのは、全く違うということでした。

満たされているということ

まず、僕は救われてから「イエス様がいつも共にいてくださる」ということを当たり前のように思いすぎていたようです。ようは、この世が与える満たしとはどういったものだったのか?を忘れていたのです。僕が教えられたのはイエス様が共にいてくださっている状態は、つまり、いつも満たされている状態なんだということです。

そして、その満たされている状態をベースとしたうえで、さらに福音宣教のため、自分がキリストの似姿に変えられるため、御国がこの地上に来るために飢え乾いて、求め続けるものなんだと思いました。イエス様と共に歩む人生が長くなると、この恵み自体が当たり前のように感じてしまう危険があることを痛感しました。

もし、、、

IFストーリーを考えてみるのがいいかもしれません。もし、イエス様に出会わなかったら、今頃はどうしていたのだろうか?そう考えると、今がどれだけ感謝で恵みに満ち溢れているかがわかります。年末が近づいてきました。数えてみよ主の恵みを賛美しつつ、年末を過ごしたいと思います。

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