主観的な喜び
先日、陽気な天気の中で散歩している時に、「あー!魂が救わている喜びは何にも変えられないな!」と強く感じました。確かに神が造られたすべてが美しく見えるようになったのは、魂が救われてからの初めての体験でした。ただ、1点疑問に思ったのが、今自分が感じているこの喜びは、一般的な喜びとは本当に違うものなのか?ということです。喜びは主観的なものであって、当人の中にある喜びは知りうることができません。表現されることによって初めて他の人でも見える形で現れますが、喜びを完全再現する表現は難しく、また受け手によっても変わるので、「表現されたもの=心の中の喜び」ではありません。
陽気な天気の中で、「あー!魂が救わている喜びは何にも変えられないな!」と感じたなら、これは果たして、ごく一般的な自然を感じた時に生成される感情なのだろうか?など思わずに、そのまま感謝して受け取るのでいいと思います。
環境に左右されない喜び
しかし、魂の喜びというものは順境の時でも逆境の時でも変わらないものです。それは、絶対的な喜びは環境には左右されません。「夜と霧」などに書かれている強制収容所でも心の平安を失わなかったことなど、環境や自分の感情によって変わらないものです。ある人はそれを意志の力と言いますが、キリスト教ではおそらく、神が一方的に与えてくださるものだと思います。
旧約聖書に出てくるイスラエルの黄金期を築き上げたダビデはまさに苦難の中で、喜びや平安を見出し続けた人でした。ある時は敵に追われ四面楚歌状態、ある時は友人のお父さんに命を狙われる、ある時は息子に命を狙われる、一般の人が到底体験し得ないような苦難の中で、神に祈り求め、平安、喜び、力を得続けました。
略奪され、家族が連れ去られ、仲間たちから「こうなったのは全部お前のせいだ」と殺されそうになった時、ダビデがとった行動はこのようなものでした。
その時、ダビデはひじょうに悩んだ。それは民がみなおのおのそのむすこ娘のために心を痛めたため、ダビデを石で撃とうと言ったからである。しかしダビデはその神、主によって自分を力づけた。
サムエル記上30:6
どんな境遇にあっても
生きている上で、嬉しいことがあり、悲しいことがあり、一喜一憂の連続です。しかし、一憂を長く続けてしまった場合、心の状態は悪くなってしまいます。ダビデのように一憂になった時に、主によって自分を力づけることが大切だと思います。身から出たサビ、自分の責任、自分のミス、自分の弱さ、など悔やんでも悔やみきれないことでも、ダビデは主により頼みました。
だから、どんな環境においても、どんな境遇にあっても、満ち足りることを教えていただきたいと思いました。
あなたはいのちの道をわたしに示される。
あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、
あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。
詩篇16:11