日本語の授業で疲弊しきってしまった時

中国へ来てから、時間というものは過ぎ去ってくれるから、本当にありがたいと思うようになりました。授業前は、2時間の授業を切り盛りしないといけないプレッシャーがどーんと目の前に現れ、教師として失格ですが、大変、億劫に感じてしまいます。それでも、授業が始まると、時間は確実に経過してくれ、2時間は徐々に減っていき、結局授業は終わります。

始まりがあること
終わりがあること

これは、人間を自由にする真理だと思っています。もし、授業が始まり、一向に時間が経過せず、エンドレスで、一生授業をしなければならないと思うと、ぞっとするし、それこそ生き地獄だと思います。もちろん、輪廻転生という仏教の教えもいいのですが、私にとっては、その教えは、上記の終わらない授業のごとく、苦痛以外のなにものでもありません。

誰でも、苦痛な時間は早く過ぎ去ってほしいと思い、幸せな時間は長く続いてほしいと願うと思う。正直、私は日々の生活において、この時間が早く終わってほしいと思うことはあっても、この時間がいつまでも続いてほしいと思うことは、ほぼ皆無です。

そして、このような事実は、キリスト者として、どこか、悲観的で、希望がなく、寂しく、情けないと思っていました。しかし、最近、その時間の経過に対する考え方が少し変わり、超幸せな時間の発生を望むのではなく、また、永遠に続いてほしいと思う時間の発生を望むのではなくて、負担があり、億劫であり、緊張感があり、プレッシャーがある、そんな早く過ぎ去ってほしいと思う時間の発生の中にあって、「神がともにいること」の事実の重さと、その特権を深く感じるようになりました。

先週から担当するクラスが増え、準備や宿題を見る時間を除いて、月曜日から金曜日まで、朝から晩まで7時間ほど授業しています。一番長いクラスで一コマ3時間、その間、休憩はたった10分だけです。7時間という授業時間をバラにバラに考えて、一回一回の授業を学生のために、熱意と情熱をもって、すればいいのですが、私はまだまだ修行が足りないので、朝、目覚めると、これから始まる7時間の授業がどっと押し寄せてきて、早く一日が終わってくれることだけを望んでしまいます。

もちろん、時間が早く経過してほしいとだけ思って、授業をしていたら、それは不幸の始まりで、その授業は長く感じてしまいますし、授業自体が苦痛になってしまいますし、学生、教師にとっても何らいいことはありません。はっきり言えば、私自身には、学生を愛するという、そんな高尚な気高い徳を有していませんし、給料もモチベーションになりませんし、また、お叱りを受けるかもしれませんが、私自身は、学生のために熱意と情熱をもって、授業をする意欲も力も有していません。

だから、私にはイェス・キリストが必要です。一人で7時間を切り盛りしなければならないと思うと、プレッシャーと相当の緊張を感じてしまいますが、キリストが共にいてくださること、キリストと共に授業をすること、キリストが教室に来てくださること、この事実が、私の7時間という時間の重荷から開放してくれました。

事実、「真理はあなたがたに自由を得させる。」とあります。二つの真理は私を自由にします。まず、全てのことに始まりがあり、終わりがあることの真理。「私は初めであり、終わりである。」そして、その始まりと終わりの間には、「神が共にいてくださる。」ことの真理。

見よ、私は世の終わりまであなた方と共にいる。

今日も無事授業が終わり感謝です。

カナンの地は今日も輝いています。

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