はがされていく
最近の取り扱いを受けて神さまの前にへりくだるという過程はこのような表現がちょうどいいのではないかと思わされています。それは「はがされていく」ということです。「へりくだります!」と宣言して、自分でへりくだるとか自分でどうのこうのするわけではなくて主の取り扱いの中で文字通り主に剝がされていくのです。
では何が剝がされるのでしょうか。それは主の取り扱いは人それぞれ違うので様々なものがあると思います。例えば、自己中心的な思い、高慢、高ぶり、不品行、汚れ、人の目を気にする思い、見栄などあらゆる神様の前に喜ばれないものが剥がされていきます。
自分では人を愛せていると思っていても
「なるほど。神様が剥がしてくださるのか!それは感謝なことだ!」と思うかもしれませんが、2点つらいところがあります。一つ目は、自分には剥がされるものがないと思っているのに剥がされるということです。これはつまり自覚できていなかったという場合です。
例えば、自分では人を愛せていると思っていても、とある状況に置かれた時に自分には全く愛がないことがわかったとか、自分はある程度聖書の御言に従おうとして生きていると思っていても、実際はほとんど従えていなかったことが明らかになるなどがあります。
それは思っている以上にショックが大きいものです。極端なことを言えば自分はO型だと思っていたのに、急にB型と言われるようなものです。僕としては、「いやいや、これまでもずっとO型だったからB型のはずがない!」と言いたくなるようなものなのです。
スティッキー(粘着質)
2つ目は剥がされることの痛みです。古い習慣や古い思考や行動になればなるほど、自身の肉の性質にべっちゃりと主に喜ばれないものがへばりついています。それは現在のアメリカでのインフレーションが「スティッキー(粘着質)」と言われているのに似ていると思います。
古い自分の性質は、とにかく「しつこい」のです。そこから逃れるには一つの方法しかありません。それは主の前にまな板の上の鯉のように明け渡すことです。
もし、歯が痛くなって暴れてわめいていたら、医者は全く治療ができません。患者は麻酔をしてもらって安静にして横になっているから治療ができるのです。
明け渡すチャンス
僕にとってこれは主に明け渡すチャンスだと思っています。これまで様々な説教を聞いてきて、「明け渡す」ことがどれほど重要かは頭ではわかっていたのですが、正直、ピンときてませんでした。
「主よ。私は心からあなたに私を明け渡します。私の中にある喜ばれない性質をあなたの十字架の恵みによって剥がしてください。」