0278_今日の自由が明日無くなる時

強制的に時代が僕を変える

昔の映画やテレビ番組等を見ると、時代の変化は早いと感じます。例えば、ハリウッドの人気映画も子供の時は笑い転げながら観ていたのですが、今観れば過剰で痛々しい表現であり、観ていられないと感じたことがあります。また、ディズニー映画も人種差別的な表現があった昔のフィルムからそういった表現を削除したというのも聞いたことがあります。今は人種差別だけではなく、マイノリティーな方たちの配慮が必要な時代になっています。

感じ方が変わったのは、観る僕の目が変わってしまっただけなのですが、それは実は時代や社会の影響を色濃く受けており、自分が主体的に大切にしている個人の信念などとは別のところから慢性的に影響を受けていると思うとすごく恐ろしくも感じます。

昨日まであった自由

近年、様々な国で民衆の声を武力で押さえつけて、無理やり法律を施行し、政治体制自体も力ずくで変えようとする事態が常態化しています。ついこの前までは自由だったのに、急に自由ではなくなるのです。それにより、仕事も失ったり、家族とも離れ離れになり悲劇と化しています。

強権政権や独裁政権は民衆の監視を強化する一方で、プライベートもあってないような状態になっています。街中にあふれている監視カメラ、普段使っているスマホが監視ツールになり、さらには近所の人たちも密告者になりうるかもしれません。今や、民主主義や自由主義を謳歌できる国が減少する一方です。第2次世界大戦や冷戦時代に当たり前に行われていたことが、今また起きています。そして、残念なことに当時よりも権力者にとって、そういった監視の利便性が高くなっています。

すべてを失う時に

世界の流れは、少数派の思想を大切にしようというものです。さらに人種や宗教も認める多様性を認め合う世界を求めています。しかし、虚しくスローガンだけが響いているような気もします。何も悲観的でもなく、人間は愚か者でもあり、自己中心的なので、自分の考えや自分の考えに近い人のコミュニティーを大切にして、その他の考えを排他的に考えやすい危険性があるからです。

今の日本には信教の自由があり、キリスト教を信仰していると告白しても、迫害を受けたりすることはありません。しかし、多くの国で起きている事象を見ると、数年先、日本がどうなっているのかは全く予見がつかない状態です。一個人が迫害を受けるのであれば、甘んじて受けられるかもしれません。しかし、肉体的な苦痛だけでなく、職を失ったり、居住地を失ったり、家族に危害が加えられたりする場合、非常に難しい立場に置かれると思います。事実それが世界で起きていることなのです。

聖書の使徒行伝の時代は、まさに信仰のゆえに、すべてを失ったように「見えた」人たちの生きざまが書いてあります。事実、キリストの信仰を貫き通した人たちは、すべてのものを得ていたのです。このようなキリストの価値を僕も知りたいです。

ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。
コリントⅡ6:8-10