0196_実家にある所有物を処分して思ったこと

在庫処分

先日久しぶりに実家に帰り、倉庫として使わせてもらっていた自分の部屋荷物の一斉撤去をしました。整理整頓、ダンボールに荷物を詰める中で、学生時代の写真や日記などを見てノスタルジックな気分に浸ることができました。今も関係が続いている学生時代の友人や中国滞在時代の思い出、その他、顔が赤くなりそうなほどの過去の日記、どれもが懐かしく記憶の断片をたどりながら過去にタイムスリップすることができました。

そういった時間は非常に良かったのですが、いかんせん、いらん物が多すぎてゴミ袋で大量に捨てることになりました。なんでこんな物買ったのか、と疑わしくなるような物が大量にあり、もしこれを定価そのままで現金化できるなら、かなりの貯金があっただろうなと思いました。

なくてならぬもの

掃除しながら強く感じたことは、下記聖書の言葉でした。

無くてならぬものは多くはない。

聖書でイエス・キリストが語られた文脈でいうと、無くてならぬものとは、神の言葉を聴くことです。逆に言えば、絶対にあるべきことは、神の言葉を聴くことなのです。それがどんなものよりもことよりも重要であり、私達の人生に無くてはならないものなのです。

イエス・キリストはすべてのすべてです。イエス・キリストに出会った人はすべてを手に入れたのと同じなのです。パウロはこのように言っています。私は自分がこれまで手に入れた物やことを糞土のように思っている、と。しかしながら、僕は、なんと物質的なものを求めていたのでしょう。僕はなんと精神的なものを求めていたのでしょう。本当に必要なことは、イエスの御霊、つまり、聖霊で満たされることであり、それ以外のもので満たそうとするならば、必ず、不要なものが増えてしまいます。

それは、物だけでなく、精神的なものや目に見えない繋がりなども含まれると思います。

ミニマリスト

2年ほど前より、ミニマリストの生き方にあこがれて実践はしています。必要最低限のものや服などは買わないようにしていますが、まだまだ、サブスクなどでクレジットカードから月々支払われているものや、ついつい、アマゾンで積ん読用の書籍を大量に買ってしまったりとか、あまり変わっていないような気もしています。

僕が求めたいのはイエス・キリストを追求し続け、彼によって満たされて、この世のものを糞土のように思っているといえる境地に至ることです。それは僕には絶対にできませんが、神様にはできると信じて今日もへりくだって生きて行きたいと思います。