1588_【続】なぜ、まだ生まれてもいないのに死ぬことを考えないといけないのか?

イエス様の生き方

昨日は、「なぜ、まだ生まれてもいないのに死ぬことを考えないといけないのか?」ということを書きました。しかし、これはキリスト教信仰では原則の一つでもあります。僕はそのことをこれまで深く考えずに生きてきたのだと思います。

まず、第一に主イエス様は「なぜ、まだ生まれてもいないのに死ぬことを考えないといけないのか?」という言葉をそのまま生きた方でした。十字架で死ぬために生まれてきたお方がイエス様です。言い換えれば、殺されるために生まれてきたお方です。ただ単に死ぬのなら老衰でもよかったでしょう。しかし、イエス様は僕のために裁きに合わないといけなかったのです。

クリスチャンもすべからず

第二に、クリスチャンもすべからず「なぜ、まだ生まれてもいないのに死ぬことを考えないといけないのか?」という言葉をもって生きなければなりません。なぜなら、この地上は寄留地だからです。仮に存在している場所です。だからこそのこの世界は不完全なのです。

本当に存在すべき場所は天のふるさとです。クリスチャンはまだそこで生まれていませんが、そのことを考えてこの地上で生きなければなりません。それはこの朽ちるべき体をどのように主の為に使うかということに関してです。

死人の復活

僕の好きな御言にこれがあります。

コリント人への第一の手紙 15:42-44
死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、

卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、

肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。

今、僕たちの体は肉の体であり、朽ちるもので卑しいものであり、弱くです。しかし、死人の復活の時にはその真逆の事が起こるのです。これこそが本当の僕たちのあるべき姿です。

、霊のからだがあるのは当然

御言は肉で読むべきではなく、霊で読むべきと書いてきました。しかし、僕は時に「肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。」ということを忘れそうになることがあります。しかし、確かにこの肉の体があるなら、そして、霊的なことを体験したのなら、なおさら、霊のからだがあるということは当然です。

今回自分の赤ちゃんに関して「なぜ、まだ生まれてもいないのに死ぬことを考えないといけないのか?」という自問を通して、主が教えてくださったのだと思います。

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