生死の理解を超えてしまっている
先日は病院に行ってこれから生まれてくる赤ちゃんに関して、お葬式のことも事前に準備しておくように助産師さんに言われました。なぜ、まだ生まれてもいないのに死ぬことを考えないといけないのか?それは僕の生死の理解を超えてしまっています。だから、本能が思考を停止するように命令しました。
もう何も考えたくないと思い、夕方に子供を連れて二人で散歩に行きました。こどもは一生懸命自転車を足でこいで、時々止まっては石や葉っぱを集めています。最近はまっているので、セミの抜け殻も探して、お宝ボックスに入れるといって興奮していました。
感動の季節はいつも夏
ふと、空を見上げるとオレンジ色からピンク色に変わるグラデーションのかかった入道雲が目に入ってきました。セミの鳴き声も遠くで聞こえます。僕にとっての夏の思い出は教会のキャンプです。教会のキャンプで主に出会い、主の愛を知り、主に従っていこうと決心しました。霊的に大きな体験をしたあとに見る景色はいつも夏だったように思います。
それから、数十年がたち、まさか自分がこんな状況にあるとは思いもしませんでした。あの頃に帰りたいと甘えの思いもやってきました。
人生の四季
人生には四季があります。一つを20年として、人生80年とします。そうすると来年から僕の人生の四季は秋に入ります。当然、春と秋では状況が違っているに決まっています。自然の四季はめぐるので春と秋は過ごしやすいな~くらいに思いがちですが、人生の四季においては春と秋は全く別物です。
だから、秋の人生に差し掛かっている時に、春がよかったというのは間違っていると思わされました。今自分が歩むべき人生の四季がある、それこそが自然の流れであり、この世界の原則であり、神の摂理であると思いました。
完全な救いの喜び
僕はこう思いました。夏には主が素晴らしいことをしてくださったいい思い出がたくさんあります。そこに今年起こった悲しみの出来事が起こったとしても主がしてくださったことは決して色あせることはないということです。むしろ、魂の領域で起きた救いはいつでも完全な救いの喜びを与えてくださるということです。
「主は良いお方」
これは状況がどうであれ、絶対に変わりません。だから今日も主に感謝と喜びの賛美を捧げます。主は良いお方。