明確に認すべきこと
信仰生活を送っていく上では、二つのものを明確に認識しなければなりません。それは聖書の中で様々な表現が使われています。例えば、この世と神の国、肉と霊、古いものと新しいもの外なる人と内なる人などがあります。
その中で僕は肉(flesh)という言葉を好んで使っています。その理由としてはこの言葉はどこか生々しくて人間的であり、かつ当事者意識を与えてくれるからです。だから僕が肉と言う言葉を使う時は、強烈な自己否定の思いが入っています。
向き合わないほうがいい
ではこの肉に関して人間はどのように向き合えばいいのでしょうか?僕の経験上、向き合わないほうがいいと考えています。なぜなら、向き合えば向き合うほど肉が活性化されてしまうからです。見れば見るほど肉の魅力に見入ってしまうからです。それはアダムとエバの教訓からも学ぶことができます。
最もいい方法は信仰の完成者であり、その導き手であり、命の源であるキリストから目を話さないことです。そうすれば自然と霊が活性化されて肉が無力化されていきます。
肉と霊には妥協という言葉はない
また、大切なことは肉と霊をごっちゃにしないことです。この世界、あるいは原理原則でさえ明確な境界線がないことは多いです。いわゆる、ケースバイケース、グレーゾーン、状況によって異なるというようなことです。
しかし、肉と霊には妥協という言葉もありません。白と黒と明確に区別されるべきものです。ガラテヤ人の手紙5章にあるようにそれらは「互いに相逆らう」ものです。なぜなら、神様は霊であり聖なるお方だからです。
明確に区別するべきと言っても、クリスチャンは依然としてこの世で生きています。また肉にあって歩んでいます。古い自分が顔を出して罪を犯してしまうこともあるかもしれません。
イエス様、あなたを愛しています
しかし、それであっても信仰によって新しく造られた者として歩むことができます。これは決して思い込み、妄信、自己暗示、セルフコントロールでもありません。ただ、心の中に今も生きておられるイエス様がおられるからそう信じざるを得ないという状況なのです。
だからこそ僕は信仰をもつことができています。高度な言語能力も自分の自制心も必要ありません。ただ「イエス様、あなたを愛しています」という真実な告白さえできれば主は心の中に住んでくださるからです。
新しい一年も霊と肉を明確にしつつも、肉を見ず主を見上げて歩みたいです。