0818_コロナ禍を経て霊的戦いに不慣れになってしまっている

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コロナ禍の教会活動

コロナで3年間ほど自粛していた教会活動がいよいよ本格的に戻りつつあることを感じています。コロナ初期は教会に行くことすらありませんでした。中期になっても教会活動は午前のみで午後からは何もないというような時が続いていました。

当初僕はこの午後からフリーの時間を嬉しく思いました。これまでは日曜日は午前から夜まで教会にいるのが当たり前だったからです。午後から家に帰って寝たり自分の好きなことができるのは良いと思われました。

本当の喜びは仕えることにある

しかし、そういった生活が1年ほど続くと、次第に物足りなさを感じるようになってきました。ようは、神様に仕えて奉仕する時のあの緊張感と喜びがほしいと思うようになりました。心は仕えることを渇望しつつも、霊的に緊張感のない僕の日常生活は世的なコンテンツを享受して生きることが当たり前になってしまっていました。

結局、救われてしまった以上は、自分にとっての最大の喜びは主に仕えることなのです。それが掃除の奉仕であれ、奏楽の奉仕であれ、讃美の奉仕であれ、自分のしたいことではなく、主のためにすることで、主がそれを喜んでくださることが、僕の喜びなのです。

霊的戦いに不慣れな状態

冒頭に書いたとおり、教会活動ではこれまでの日常を取り戻しつつありますが、主に仕えようとする時に「霊的な戦い」に巻き込まれることも思い出し始めました。コロナになってからはこの「霊的な戦い」には不戦敗状態だったので、戦いに慣れるための訓練が必要でした。

戦いに勝つための秘訣、それは、一言でいえば「へりくだること」です。仕えること、自分の塵に過ぎない存在ということを霊的な深い領域で悟ることなどが含まれます。そして、決して変わることのない御言を宣言して勝ち抜いていいくという工程です。

自己本位な祈り

僕は完全に戦い慣れていなかったので、「自分自分」が芽を出し始めていました。どういうことかというと、自分が主体で奉仕するときだけ必死で祈り、ほかはあまり熱心に祈らないという姿勢です。これは結局は自分のことだけを考えている奉仕態度です。

しかし、自分が参加できない、参加しないあらゆる教会活動のため、あるいは教会の兄弟姉妹のために同じ熱意をもって、いや、それ以上に熱心に祈ることが求められると教えられました。

まことの悔い改め

僕は自分の汚さを知っています。それは主のため、兄弟姉妹のためと言いつつも、突き詰めていくと、結局は「自分のため」に祈っているということを。だから、今日も表面的な悔い改めではなくて、霊の深い領域で悔い改めて、主の霊によって仕えていきたいと思います。

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