嫁さんの犠牲の上に
子どもと1週間ひと時も離れずに生活して教えられたことがあります。それは自身の信仰生活の基本が嫁さんの犠牲の上に成り立っているということでした。僕が朝、夜、祈る時間を確保できているのは嫁さんが子どもを見てくれているからだということを今更ながらに知りました。
普通に考えたら「子どもが寝ている間に祈れるだろう」と思うのですが、それが意外にできないのです。朝、子どもより早く起きたとしても洗濯物や洗い物やゴミ出しや朝ごはんの用意などで一瞬にして1時間くらいが過ぎていきます。たとえ、6時に起床できたとしても7時まで家事をして7時にこどもが起きてきて朝食となります。そう考えると起床時間は5時半にしないといけません。
夜祈ろう
じゃあ、夜祈ろうと思います。しかし、夜は夜でこどもが寝たとたん緊張から解き放たれて一緒に寝てしまうのです。仮に夜起きるという状態であったとしても、夜寝る前はこどもの機嫌が悪くなることが多く、感情的になって怒ってしまう場合もあります。そうなると、怒りたくないのに怒ってしまったという自責の念にかられて、祈る気力がなくなってしまって結局寝てしまうということもありました。
僕が体感したのは、こどもを見るということは想像以上の体力と気力を使うということでした。もちろん、楽する方法はいくらでもあると思います。長時間テレビやYoutubeを見せておくという方法です。しかし、テレビを見せるのは晩御飯を作る時だけで、あとはできる限り一緒に遊んであげたいと思っています。
嫁さんにも祈る時間を確保
僕が改めないといけないと思ったことは「嫁さんにも祈る時間を確保できるようにする」ということでした。僕は「家庭の基礎は男が祈ること」という亭主関白、昭和的考えをもっていました。まず男が祈ることこそが家庭の基本と強く考えていたのです。
だから、多少の家事はしていたとしても、自分が祈ることのほうを優先してしまっていたのです。これは僕が改めないといけないことだと思いました。
夫婦が一致する原則
確かに「男は黙って祈れ」の姿勢は一理あるかもしれません。しかし、夫婦は2人です。それぞれが神様に向き合わないといけません。なぜなら、事実「神様がそれぞれに語られたことで夫婦が一致する」ということがあるからです。
また、僕が祈れない時に嫁さんが祈ってくれる。また嫁さんが祈れない時僕が祈ることができる。というようなこともあるかもしれません。