心に平安がない
クリスチャンであっても祈っているにもかかわらず、また聖書を読んでいるにもかかわらず、心に平安がこないという状況に陥ることがあります。これまで、自分の人生でもそういった時期が少なくありませんでした。そういった状況に陥る理由の一つに「主の時がある」ということがあると思います。
主はいつでも圧倒的な恵みと平安と愛を与えることができますが、あえて、主が僕たちに粘り強く祈り求めることを待っておられるという場合です。それは主が主権を握っておられるので、主が「しかりといえばしかり」なので、主の時をまつほかありません。
ゆるせない感情
しかし、それ以外にも平安が全くこないという時があります。それは人を許せていないという場合です。人をゆるせてないと心に平安はやってきません。それは聖書にも書いてあります。人をゆるせていない状態で人は神の前に出ることはできないのです。
だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。
マタイ5:23-24
にもかかわらず、人間は油断すると人を許せなくなってしまう弱い生き物です。それが意識的にしろ、無意識的にしろ、誰かを心からゆるせていないという感情は僕たちを縛ってしまいます。意識している場合は、負の感情に捉えられるだけでなく、認知も奪われてしまいます。無意識的にでもバックグラウンドでは負の感情が渦巻いているのです。
心からゆるすこと
僕自身、これまで「ゆるせない」と思った人がいました。しかし、そういった場合には、いくら祈っても、聖書を読んでも、説教を聞いても心に平安はやってきませんでした。そういう時は、穏やかな目をしていなかったと思います。
しかし、主に悔い改めを迫られて、心からゆるせるように主に祈り求めた時に心に平安がやってくる体験を何度もしてきました。何よりも、この「人をゆるせない」という罪もイエス様が十字架上で背負って処理してくださったのです。ですから、イエス様により頼む時に初めて心から人をゆるすことができるのです。
身近な人
また、往々にして人をゆるせないという感情は身近なところから起こると思います。例えば、職場、家庭、教会など自分たちが日常的に関わりがある人を、ちょっとしたことでゆるせなくなってしまったりするのです。だからこそ、日々の祈りの中でこういった祈りを実践したいと思っています。
- 職場、家庭、教会の人の中で心から許せていない人があれば示してください。
そうすれば、主が共にいてくださり、主の平安が訪れると信じています。
わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。
テトス3:3-5