0366_コンテンツとコンテキスト

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あまーい言葉

クリスチャン生活に欠かせないものに、聖書の言葉と祈りがあります。聖書の言は魂の糧であり、旧約聖書でははちみつの甘さに例えられています。本当の話かわかりませんが、ユダヤ人は今でも、子供に聖書の言葉の甘さを教えるために、実際に旧約聖書の上にはちみつを垂らして、子供に舐めさせて聖書の言の甘さを体感させるそうです。

はちみつに例えられている以上、毎日、食べる白ごはん以上の魅力があるということです。腹が減ったから食べたくなるというものではなくて、腹が減っていなくても食べたくなるそんな言葉なのだと思います。預言者エレミヤはこのように言っています。

わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。
み言葉は、わたしに喜びとなり、
心の楽しみとなりました。
エレミヤ15:16

聖書の言葉には知識的な側面もありますが、それ以上に、霊的な側面のほうが強いと思います。ワインは頭で飲む飲み物であるように、聖書の言葉が魂、あるいは霊で食べる食べ物なのです。

インタラクティブな関係

祈りは、神様との会話とも言われています。一方的に願い事を陳述するようなものではなくて、双方向の交流です。一方通行、立て板に水のような祈りではありません。もちろん、神の時がくるまで、神様があえて沈黙をされる場合もあると思いますが、基本的には交わりであり、会話なのです。

個人的には旧約聖書のダビデほど、祈りの模範になる人物は居ないのではないかと思っています。ダビデを中心に書かれた詩篇には神様との濃密な関係、愛の関係、許す者と赦される者との関係が明確に書かれています。主を褒め称え、感謝で満ち溢れ、悔い改め、安らかに休んでいるのです。そして、主との交わりの中で本当に主が真実なお方であるということが明らかになっているのです。

学びの2大原則

学びには2つのものが大切だと言われています。それは、コンテンツ(知識)とコンテキスト(空気感)です。まず言語化された知識がないと自分の中に取り入れることはできません。さらに良い師がもっている空気感は実際に共に行動をすることにより習得できるものが多いです。良い師の様々な状況での具体的な振る舞いを見て知識では得られない学びをするのです。

例えば、僕は以前、中国にいた時に、中国の宣教師の方と4日ほど共に行動をしたことがあります。寝食を共にし、様々な教会を回って証や説教や賛美などをするのです。そこでは、人々の中に水のように溶け込んで入ってく宣教師の姿がありました。ほとんど一瞬のうちに関係を作って信頼関係を作って、その場で祈ってあげるというような姿を目にした時に、「宣教師にはこういうあり方が必要なのだ」と学びました。こういった学びはおそらく知識からは難しいと思います。

日々主にあって成長するために

聖書の言葉は霊的なコンテンツで、祈りは主のコンテキスト(空気感)に当たるかもしれません。言語化された霊的な食物と、実際に主がどのようなお方であるか、特に様々な状況での主の具体的な振る舞い(取り扱い)を見て聖書では得られない恵みを体感するのだと思います。

おっさん
■聖書の言葉ははちみつに例えられており、腹が減っていなくても食べたくなるようなもの
■祈りは主とのインタラクティブな交わりで主がいかに恵み深いお方であるかを知る
■学びにはコンテンツ(知識)とコンテキスト(空気感)がある
■聖書は霊的コンテンツ、祈りにより主ご自身のコンテキストを知ることができる

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