仕事帰りに
昨日仕事帰りにたい焼きを買って帰ろうと思い、店舗の前に並ぼうとしたら、60代くらいのおじさんと同じタイミングで列に並ぶことになりました。ほぼ同着だったので、ジャッジも難しいところです。
どうしたものかと様子を見ていたら、おじさんが少しずつ足をじわじわ前に動かして、前進していました。そして、完全に「先に俺」という既成事実を作られてしまったのです。完全におじさんにやられました。
とりあえず、気持ちの整理として、おじさんがたい焼きを受け取ってから僕に回ってる間の時間は2分くらいだったので、そんな勝ち負けにこだわらずに心を入れ替えて、たい焼きを味わおうと意識の書き換えを行いました。
中国で列に並ぶということ
個人的に列に並ぶということに関しては、かなりこだわりを持っていたほうなので、くやしかったです。というのも、中国での生活のおいては、並んでいても、いつまでも自分の番が回ってこないので、我先にと抜かしていかないとだめだからです。
もちろん、銀行などでは発券された順番に呼ばれるのですが、早朝の路上飲食販売系は闘争意識がないと食にあずかることすらできません。待っていても買えないのです。それは通勤時間帯のバスも同じです。経験と勘により、バスの停車位置を把握し、そこに激走して行き、既にすし詰め状態であっても、体を押し込む気持ちがないとだめなのです。それがないと出勤すらできません。
先に順番に並んぶメリットは?
日本は中国と違って順番に並んでも抜かされることはないので、待てばとりあえずありつけることは保証されています。待ち時間に関しては、大型アトラクションだと3時間とかありえますが、レジに並ぶなど日常生活における待ち時間は数分〜数十分くらいだと思います。いつも思うのは、1日24時間ある中で、その数分から数十分が短縮できたとして、人生の豊かさにどれほどインパクトがあるのかということです。
もちろん、多くの人にとって、順番が抜かされるこは嫌なことでしょう。自分が先にありつけるという権利を奪われるからだと思います。でもその権利がもたらす時間というのは本当にわずかな時間だけです。
ちりも積もれば山となるとも考えられますが、人生の豊かさに影響を与えるほどの時間にはまとまった時間が必要だと思うので、細切れの時間に意味があるのかわかりません。逆に待ち時間に本を読んだり、ニュースをチェックしたり、するほうがいいようにも思えます。
神中心における利他中心
イエス・キリストはご自身が弱くなり、貧しくなることで、人間が強くなり、豊かになるようにしてくださいました。自己中心ではなく、神中心における利他中心でした。ですので、僕もまた、同じ状況に遭遇したら、「どうぞ!」と譲れるようになれればと思います。そのほうが双方にとって気持ちのいい時間になるからです。
■ただ、その権利からもたらされるメリットは果たして大きいものなのか
■キリストは自分を捨てて、人類が豊かになる道を開いてくださった
■順番の勝ち負けを捨てて、素直に「どうぞ」と譲れる人になれると人生が豊かになるだろう