0458_1万人に1人の逸材と言われたら

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自己肯定感の毀損

先日見たドキュメンタリーで近年はSNSの普及により、比較が当たり前になり、自己肯定感がもてない人が増加していると言っていました。僕も同じような経験をしたことがありますが、もし、僕が中学生・高校生の時にSNSがあって、当時から比較の渦に巻き込まれていたら、今の自分はどうなっていたのだろうと恐ろしくもなります。

自分の好きな分野でSNSで検索すると一般人で同じ年くらいにもかかわらずフォロワー数が何万人もいて、能力も驚異的で、自分と比較してしまうことがあります。「この人は自分よりも若いのに」とか「自分よりも経験が少ないのに」とか比較して自分を低く見積もってしまうのです。

SNSはそもそも一部のマイノリティーな人たちが目立つ世界です。

比較対象が広すぎる

TwitterやYouTubeなどSNSの恐ろしい側面は一部の非凡な人が周りに10人くらいいると、それが「みんな」になってしまうことです。こどもの頃に、両親に「みんな」持っているから、これを買ってほしいというこの「みんな」です。この「みんな」は往々にして身近な友達3名くらいだったりするものです。

ただ、個人的な経験として、SNSにおける非凡な方たちは上位10%〜5%にいるような人たちで、そのような人たちと比較する必要などないのです。一昔前の比較の対象といえば、クラスやクラブ内の30〜40名くらいだったかもしれませんが、それが今や比較対象が一桁、二桁単位で増えてしまったのです。ですので、比較対象が広がったピラミッドの頂点近くにいる非凡な人と、ピラミッドの限りなく下のほうにいる自分を比較すること自体が間違っています。

もちろん、比較対象が広がったことで、井の中の蛙ではなく、俺ももっと頑張ろう!と思えるポジティブな側面もあります。しかし、ネガティブに働くと自己肯定感が毀損されいいことなどありません。自分を見失ってしまう可能性すらあります。

大切なこと

いずれにしても大切なことは自分はマイノリティーな凡人ではなくて、マジョリティーの凡人であるということです。上位10%以外の人は90%もいるのです。90%の中に自分がいると思えば、「なんだ、普通の人もいっぱいいるじゃないか」と安心できるのではないかと思います。

さらに大切なことは、1万人に1人と言われるような逸材がいるように、神様の目から見た場合、ひとりひとりは80億人に1人の大切な人なのです。これは時間軸を入れていないので、もしかしたら、1兆人に1人の大切なかもしれません。一人ひとりは量産品ではなくて、神様の大切な大切な「作品」なのです。

わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。
エペソ2:10

おっさん
■上位10%の人たちと比較する必要などない
■神様は1兆人に1人の大切な作品として僕たちを見てくださっている

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