0384_奉仕するのがだるいと感じた時の対処方法

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ポスティングの奉仕

先日、イースターに向けて教会のビラをポスティングしに行きました。いい気候だったので、1時間ほど散歩もしながら楽しめました。以前は心の中で、「こんなビラ一枚見て教会に行こう!」と思う人などいないだろうと不信仰な気持ちでやっていた時期もあったのですが、今ではこの地域のために祈りながら、気持ちをこめて1枚1枚ポストに入れています。

今は、SNSやYoutbe配信など各種メディアを使った布教活動が一般的になっているので、こういった布教活動は一見地味に見えますが、アナログかつフィジカルな伝道もこれから絶対に欠かせないどころか、より一層重要になってくると思っています。

奉仕への姿勢

これまでの経験上、奉仕は「やらされている」と思った瞬間に一気に恵みからこぼれてしまうものだと感じています。だるいな~とか思いながらやると、本当にだるくなってしまうから怖いものです。王の王であるイエス・キリストに仕えることは栄えあることで、そんなことをさせて頂けることは本当に感謝なことです。

しかし、仕事や家のことをやりながら、多くの奉仕を担当するようになると、時には疲れやしんどさを覚えることもあると思います。そういった時の正攻法は、「主を待ち望む者は新たなる力を得る」との祈りから、主から力を頂いて奉仕をすることだと思います。時には体に鞭を打って身体を従わせることも必要になることがあるからです。

奉仕がだるいと思った時

とはいいつつも、僕は自分自身がだるがりだと知っているので、奉仕に行く前はある言葉を宣言してから行くようにしています。それは「奉仕をして天国に行った時の自分にプレゼントしよう!!」です。ここでいうプレゼントとは天国に宝を蓄えるという意味合いです。奉仕とは主に仕えて主に喜んで頂き、周りの人の役にも立ち、さらに、自分が天国に行った時にも嬉しいことがあるので、「三方よし」の活動なのです。

救われた時は、どんな奉仕でも大きな喜びをもってしていたと思います。しかし、人間は慣れる生き物なので、恐ろしいかな、王の王であるイエス・キリストに仕えることにも慣れてしまうのです。「あー今週は掃除の奉仕か、だりー」と思ってしまう弱さと怖さがあることを僕自身感じています。

ですので、そういった慣れや間違った理解から自身の認識を書き換えるために、「奉仕をして天国に行った時の自分にプレゼントしよう!!」と宣言すると、なにやら嬉しくなり、奉仕に行きたくなってくるのです。ぜひ、みなさんもお試しあれ!

おっさん
■奉仕とは王の王なるイエス・キリストに仕えさせて頂く栄えあるもの
■しかし、悲しいかな人間はそれにさえ慣れてしまう
■だから、認識を書き換えるために自分へのプレゼントと思うのもありなのではないか

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