0383_大人のクリスチャンに一歩近づくために

怪我

先日ランニングをしていたら、右足ふくろはぎに激痛が走り、それ以上走れなくなってしまいました。昨年12月に肉離れを起こして以来の怪我で古傷が癒えてなかったのかもしれません。

ランニング前後のストレッチを徹底し、サポーターで保護するなど気をつけており、事前の痛みもなかったので、全く怪我の兆候に気がつきませんでした。ようやく春らしい陽気な季節に突入して、ランニング日和が続いていただけに大変くやしいです。

片足のわずかな痛みでも

正直、3月は月間80km達成できて、距離伸ばすなんて楽勝じゃん!って調子にのっていた自分もいました。自分の体に負荷をかけ続けても大丈夫だろうと高を括っていたので、痛い目に合ってしまいました。これで4月は80kmどころか、2週間は休足です。

今回の激痛が走ったあとも、一瞬ゴリ押しで走ってやろうと思いましたが、ふくろはぎの痛みごときで全く走れなくなってしまいました。足全体が痛む場合、走れなくなるのはまだわかりますが、右ふくろはぎの一部だけなのになんで走れないんだ!と思ってしまいます。歩くことはできるにもかかわらず、走ることはどうがんばってもできないのです。

クリスチャンの両足

思えば、クリスチャン生活に必要な御言と祈りも両足の役割を担っていて、片方が少しでも欠けると魂が恵まれた状態で歩むことは難しいと思いました。もし多く聖書を読んだとしても、少しだけしか祈らないのなら、歩けるくらいの速度かもしれません。万が一、祈りも聖書も少しだけのような生活だと、あかちゃんのヨチヨチ歩きのような状態に近いのかもしれないと思わされました。

特に祈りに関して、最近教えられているのは、「自分のためにではなく、他の人のために祈りなさい」というものです。もちろん、自分のために祈るのもかなり重要だと思いますが、他人のために祈る時に特別な恵みにあずかれることを体感しています。

大人になるために

自分を見て思うのですが、「あんな人のためには祈れないけど、主はこんな僕を愛してくださっている」という状態は、赤ちゃんクリスチャンと同じだと思います。自分は成熟した大人のクリスチャンか?という問いに対しては、NOとしか言えないものですが、まずは、他人のために祈ることから始めたいと思います。それが神様が喜ばれることだからです。

おっさん
■聖書の言葉と祈りは人間の両足のようなもの
■いずれかが欠けても走れなくなる
■特に他人のために祈ることができれば大人のクリスチャンに一歩近づけるかもしれない

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