0364_結局キリスト教も他の宗教や道徳と同じでしょ!?

どんな宗教も結局は一緒!?

キリストの教の代替不可能性はどこにあるのでしょうか?たまに「ぶっちゃけどの宗教も同じじゃね?」とか「クリスチャンでない人のほうがいい人が多い?!」というような発言も聞こえてきたりもします。確かに、小学校の道徳の時間に習うような内容は多くの宗教で重複していると思います。

例えば「感謝の心を忘れないようにしよう」や「自分が望んでいることを他の人にもしよう」といった内容です。じゃあ、わざわざクリスチャンになる必要ないやんとなるのですが、そうではないと思います。下記画像のように何かと重複している部分はあるとは思うのですが、全く重複していない他の宗教や道徳的内容にはない特徴があります。これが、唯一無二であり、代替不可能なのです。

力を付与する

キリスト教の醍醐味の一つは力を付与する宗教であるということです。主は実際に、現実世界の問題の中に、あるいは自分自身の問題の中に力を表し、介入して助けてくださるのです。良い教えは道徳や他の宗教にもあります。しかし、キリスト教はそれを実行する力を与えてくれるのです。使徒パウロはこのように言っています。

神の国は、言葉ではなく、力にある。
Ⅰコリント4:21 

多くの聖書の人物が体験したように弱い者がキリストにあって強くなれるのです。それは思い込みやポジティブシンキングではなくて、主の御心に沿って求める者に付与されるものです。それは誰かに対して誇示するような力ではありません。内面的には誰かを赦す力かもしれませんし、自分の悪癖に打ち勝つ力かもしれません。あるいは、傷ついた心が癒されて力が湧いてくることかもしれませんし、精神的な弱さからの復活かもしれません。また、外面的には福音宣教の働きの際に起こる主の力の現れ(しるし、不思議)などかもしれません。

罪のゆるし

キリスト教の最大の唯一無二性は罪のゆるしにあります。大前提として、ここでいう罪とは法に抵触する犯罪だけを指すものではありません。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、罪はギリシャ語でハマルティアで、「的外れ」という意味です。神と共に歩まない、神に背を向けて生きている生き方自体が罪なのです。つまり、「俺は神様なしで生きていけるっつーの!」というところに罪の性質があるのです。使徒パウロはこのように言っています。

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人には与えられていないからです。
使徒4:12

罪が赦されるということは、罪を赦された人にしかわかりません。例えば、ピザを食べたことのない人が、外国人にピザのおいしさを口頭でどれだけ説明されても魅力は感じないでしょう。しかし、その外国人が目を輝かせて、しきりに魅力を説明するので、少し興味がわきます。そして、実際にピザを見て、食べた時に、ピザのおいしさに気づくのです。罪の赦しも同じです。体験しなければその恵みの深さはわからないのです。

罪の赦しを体験すると、神様との愛の交わりの中に入らせて頂けます。この愛の関係を持てることが、キリスト教の特徴であり幸いなのです。

おっさん
■キリスト教の教えは他宗教や道徳の教えと重複している部分がある
■しかし、キリスト教には複数の唯一無二性がある
■そのうちの一つが実際に教えを遂行する力を人に付与するものである
■最大の唯一無二性は罪のゆるしにあり、これは体験によって恵みを知る性質のもの

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