その人とイエス様との関係
時々、他の教会においてこのような話を耳にします。それは教会の主要メンバーで献身的に働かれていた方が教会から離れて開拓を始めるという話です。このことに関して「あなたは私に従ってきないさい」というイエス様のお言葉どおり、他人のことは「その人とイエス様との関係」に集約され、他人がどうのこうのいうものではありません。
しかし、僕も上記に少し似たような経験をしたことがあります。いつか書こうと思っていたので今日はそのことについて書こうと思いまます。
大いなる勘違い
ペンテコステ派の教会に多いのかもしれませんが、教会で用いられるとこのように大いなる勘違いをすることがあります。それは「私は主に用いられている。奉仕しても油が注がれる。そして実際に明確な聖霊の導きの中で働きができている」というものです。
それ自体は主観にほかならないのですが、確かに客観的に見ても「あの人は用いられている」という印象は受けるものです。そして、そのような人は気をつけなければいけません。それは聖書に「立っていると思う者は倒れないように気をつけないさい」とあるとおりです。
主がその教会を祝福したい
なぜ、大いなる勘違いなのでしょうか?なぜなら、その人に油が注がれているのは主がその教会を祝福したいと願っておられるからです。つまり、その人自体は重要ではないのです。主はその教会、その教会に集う人にご自身を現わし、祝福し、恵みで満たしたいと思っておられるのです。
なぜ、このようなことが僕に言えるのでしょうか?それは僕が21歳の時に中国に行った時がまさにそのような体験だったからです。当時僕は教会で非常に用いられていると大いなる勘違いをしていました。まさに愚かなことに「私は主に用いられている。奉仕しても油が注がれる。そして実際に明確な聖霊の導きの中で働きができている」と思っていたのです。
しかし、母教会から離れて中国へ行ったとたんに、その高慢は打ち砕かれました。まず第一に上記のように高慢になっている器を主は用いることはできないからです。第二に主はその教会を祝福したいと願っておられるからです。つまり、教会を愛してコミットする器を豊かに用いられるのです。
教会を安易に離れないほうがいい
だから、僕が言いたいことは、「自分が主に豊かに用いられているからと言って、教会を安易に離れないほうがいい」ということです。あなたが用いられているのはその教会にいるからであって、あなたが何か特別だからではありません。これは自分の非常に痛い情けない経験をもとに書いています。