放蕩息子の例話
イエス様は新約聖書で多くの例話をされています。たとえ話といっても、日本の寓話のように教訓がわかりやすいものばかりではありません。正直あるものは難解で、あるものは理解しやすいです。理解しやすい例話の中に放蕩息子の話があります。この例話は福音の核心であり、聴く者の心を打ち深く感動させられるものの一つだと思います。
この例話は多くのことを教えてくれます。天の父と共にいる状態がどのようなものなのか?また離れた状態がどのようなものであるのか?そして、徹底的な悔い改めと天の父の深い愛が語られています。
伝道の説教でよく語られる
特に息子の帰りをずっと祈り、待ち望んでいた父の姿は悔い改める者の心を打ちます。このたとえ話のお父さんは「今日はきっと息子は帰ってきてくれるはずだ」と信じて毎日家の外に立ち日が暮れるまで待ってくれていたのだと思います。だからこそ、遠くにいる帰ってきた息子をすぐに認めて息子を迎えることをしてくれました。
この話は伝道の説教でよく語られます。それは、たとえ罪深い生活をしていたとしても悔い改めるならば父はそれを責めることなく赦して迎えてくださるからです。
もう一人の放蕩息子
では一度クリスチャンになったらこのたとえ話は自分たちに適用されるものじゃなくなるのでしょうか?ある説教者はここでもう一人の放蕩息子のことを語ります。それはずっと家にいた兄です。彼は父との生活にそれほど感謝していなかったようです。彼の心は恵まれていませんでした。なぜなら、放蕩していた弟が帰ってきた時に不平不満、ねたみの心を起こしたからです。
ですので、既に救われたクリスチャンは兄のようにならないように気をつけないといけません。物理的に近くにいたとしても、霊的に近いとは限らないからです。霊的とは愛のことです。誤解を恐れずに言えば教会には来ていても父の愛から離れてしまう可能性があるということだと思います。
弟の悔い改めの覚悟
次に、たとえクリスチャンになったとしても再び弟のようになる可能性も否定できません。もちろん、以前のように完全に天の父から離れて自分の好き勝手に放蕩三昧ということはないでしょう。しかし、日々天の父に悔い改めるべきことは起こってくるものです。ここで注意が必要です。
なぜなら、僕は悔い改めることが習慣化されてしまって初心の悔い改めの本気さを失っていることがあると感じるからです。放蕩息子の弟の悔い改めの覚悟はこうでした。
もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください。
ルカによる福音書 15:19
僕が悔い改める時、時に心の中に甘えがあるのを知っています。それは、「天の父は以前のように今回も僕を赦してくださるだろう」というものです。これは放蕩息子の悔い改めの覚悟とは全く違います。
本気で変わりたいなら
僕が教えられるのはもし本気で変わりたいなら、本気で主と共に歩みたいなら、心からこのような本気の悔い改めの覚悟が自然と生まれるということです。今、僕に必要なのは徹底的な放蕩息子の本気の悔い改めだと思わされています。