0765_約10年振りくらいにCSの説教をして

CS説教の準備

先日、おおよそ10年振りくらいにCSの説教をしました。数週間前から聖書箇所を見て祈りつつ、一週間前から本格的に準備を始めました。昔は先送り癖が強く、追い込まれたほうが必死で主に祈るので、概ね前日か当日の早朝に準備をしていました。今回のように、1週間前から本格的に準備をするのは初めてのことでした。

今更かよと思われるかもしれませんが、以前とは違って1週間前から毎日こどもたち一人ひとりの名前をあげて祈るようにもしました。

聞き手のことがわからない

準備をする中で大きな壁にぶつかりました。今の教会は3年前から来始めた教会です。さらにその間はコロナの影響でCSは定期的に開催されていなかったので、こどもたちがこれまでどのような説教を聞いてきたのか、どういった御言を聞いてきたのか、またどんなことに興味があり、どんな性格なのかも全くわかりませんでした。

こどもたちの性格や好みを知っていたら、それをもとに反応をイメージできるので説教を作りやすくなります。ただ素材が全くなかったので、かなり悩みました。

掴み

導入のつかみも数パターン考えて、あれこれ入れ替えながら考えました。正直、最初の導入でそれ以降の聖書の大切な話を聞いてもらえるかが決まると思っています。もちろん、絶対的なこととして、語られるのは聖霊であり、聖霊がこどもたちに直接語りかけてくださいます。

僕がただ単に聖書の御言を読み、解説を加えるだけなら、それはとても虚しい時間でです。そんな時間ならないほうがましです。逆に言えば、聖霊が働かれない説教の時間ほど恐ろしい時間もありません。そういった時は僕の語った言葉がこどもたちの心に浸透せずに、空中に浮いているのが見えます。

結局前日に大幅修正

結局、前日に大幅に修正して、内容を変えることにしました。掴みも変更して、あわててコンビニに掴みで使うものを変えに行ったりして、いつものとおりバタバタしました。ただ祈ってどうしても伝えたいと思った内容はそのままにしました。

そして、当日、僕の体感では、掴みも、ウケるだろうと思ったところは軒並み滑りました。しかし、祈ってどうしても伝えたかったところは聞いてくれていたように思います。

神にのみ期待する

今回知ったことはこれです。たとえ、掴みや導入がうまくいかなかったとして、聖霊が働かれるなら、説教は届くということです。根からの関西人なので、どうしても笑いを取りたいと思うところに「自分」というものが存在していると思いました。

次回は、この「自分」を捨てて臨みたいと思います。

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