1416_ユダヤ人は今も罪の赦しのために動物の犠牲を捧げているのか

血を流すことなしに罪の赦しはあり得ない

今は通読でレビ記を読んでいます。レビ記には主に礼拝に関する様々な規定に関して記載されています。レビ記は非常に重要な書物だと思っています。なぜなら、この血が流されることで罪が赦されるという原則は、イエス・キリストの十字架の罪の赦しの青写真となっているからです。聖書にも「血を流すことなしに罪の赦しはあり得ない」とあります。

そして、今回は読んでいてこのような疑問をもちました。それはこのようなものです。

「ユダヤ人は旧約聖書を認めているが、キリストを救い主として認めておらず新約聖書は信じていない。では彼らは今もなお、レビ記にあるような罪祭(贖罪のための動物の犠牲)をしているのだろうか。なぜなら、血を流すことなしに罪の赦しはあり得ないから。」

断食や悔い改めによって罪が赦される

色々、調べてみるとローマ帝国によって神殿が破壊されて以降、ユダヤ人は今はレビ記にあるような罪祭はしていないようでした。伝統的なユダヤ教では1日に3回の礼拝を守っているようです。断食や悔い改めによって罪が赦されるとしているみたいです。そこで疑問が起こります。「血を流すことなしに罪の赦しはあるのか?」と。

しかし、この御言は新約聖書に書かれているものです。伝統的なユダヤ教では必ずしも血を流すことなしに赦されると信じているようです。

しかし、悪人がもしその行ったもろもろの罪を離れ、わたしのすべての定めを守り、公道と正義とを行うならば、彼は必ず生きる。死ぬことはない。その犯したもろもろのとがは、彼に対して覚えられない。彼はそのなした正しい事のために生きる。 23主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。
エゼキエル18:21-23

血は命であるゆえに、あがなうことができる

しかし、レビ記を読んでいてこのような記述があったのです。

肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。
レビ記17:11

旧約聖書は新約聖書の青写真です。また、律法の一点一画も決して消え去ることはないと聖書にもあります。確かに旧約聖書における動物の血を流すことによって罪が赦されるフェーズは過ぎ去りました。しかし、今は別のフェーズにって、尊い完全な罪のないイエス様の血潮によって罪が赦さるのだと信じています。それはイエス様がおっしゃったこの言葉のとおりだと思います。

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
マタイによる福音書 5:17-18

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