1334_「神様が共にいて下さる」という言葉をあたかもお守りのように使っていないか?

どのくらいの時間を主イエス様と共に

自分の信仰生活を見てて「僕は一体1年でどのくらいの時間を主イエス様と共に歩んでいるのだろう?」と思うことがあります。もし日曜日だけ自分のやりたいことを置いておいてイエス様に集中するような信仰生活であれば、たった52日間しかイエス様と共に歩んでいないことになります。

日曜日とはいえども、もしかしたら礼拝のわずか2時間の時間だけイエス様に集中しているのかもしれません。それであれば、1年あたり4日くらいしかイエス様と共にあゆんでいないことになります。そう考えれば自分の信仰生活が恐ろしくもなります。

僕自身も主と共にいることを願っているか?

僕は、インマヌエル神われらと共にいます神様を誤解してはいけないと思っています。確かに神様は僕たち人間と共にいたいと願っておられ、共にいてくださるお方です。しかし、それは僕自身も主と共にいることを願っていることが大前提です。

それは当然です。いくら僕が友達A君と遊びたいと思っていても、もしA君が僕と遊びたいと思っていないなら僕は一緒にいたいと思わないでしょう。なぜなら、A君は僕と一緒にいてもつまらないと感じているからです。

自分は自分勝手に好きなように生きたいが

だから、自戒を込めて書きますが、神様が共にいて下さるという言葉をあたかもお守りのように使うのは間違っているということです。僕自身がよくそれをしてしまいます。その心は、自分は自分勝手に好きなように生きたいが、神様の恵みや祝福はほしいと願う非常に自己中心的な信仰生活です。

しかし、それは実際は全く神様と共に歩む生き方をしていないのです。それは信仰生活を送っていると思いこんでいるだけです。もっと厳しく書けば、宗教行事をこなしているだけの信仰生活です。

はどうすれば主と共に歩めるかも知ってる

僕は霊においては、ノアやエノクのように神と共に生きる生き方がしたいと思っていますが、肉においては神様抜きで自分勝手に好きなように考えて生きたいと思っています。残念ながらそれが事実です。

しかも僕はどうすれば主と共に歩めるかも知っています。それなのに、それをしようともしないのです。なんて自分は自分勝手なんだろうと思います。

主を選択し続けるというある種の厳しさ

今僕に必要なのは律法主義ではない主を選択し続けるというある種の厳しさだと思っています。その厳しさは「犠牲」とも言い換えられるかもしれません。自分のやりたいこと、考えたいことを捨てて主を選び続ける犠牲です。

その先に主と共にいることのもっと大きな恵みが待っているのだと思います。

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