0564_感染性のある汚い物体をあえて触る行為

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先日の説教箇所

昨日の説教はマタイによる福音書8章から語られました。8章では多くの人がイエス様のところに来て病の癒やしを体験します。一人目は感染性のある重い皮膚病にかかっていました。当時、こういった感染性のある皮膚病に罹患している人は周りにうつさないように「私は汚れている」と言いながら人々と距離を取って歩かないといけなかったそうです。

その人がイエス様を目にします。彼はイエス様なら治してくださるという信仰がありました。ただし、自分は感染性のある病原菌をもっています。イエス様に近づくことはできないので、遠くからイエス様に目を留め、ひざまずいてこのように言いました。

「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」
マタイ8:2

イエス様は遠目で癒やされよ!とおっしゃったわけではなく、なんと、わざわざ彼に近づいて、しかも彼に触れて癒やされたのです。

イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、重い皮膚病は直ちにきよめられた。
マタイ8:3

病の癒やしだけでなく

イエス様はなぜわざわざ近づいて手を触れてくださったのでしょうか?それは病を負っている人はその病におかされているだけではなく、社会から隔離されており、愛に飢え乾いているからです。イエス様は権威をもってただたんに病を癒やすということよりも、「私はあなたをありのままで受け入れているし、あなたを愛している」と伝えたかったのだと思います。

病が癒やされた者にとっては、病が癒やされたことは大きな喜びだったでしょうが、おそらくイエス様に愛されて受け入れてもらっているということの体験のほうがこの上なく嬉しいことだったと想像できます。

イエス様はありのままで愛してくださっているのです。

触れると言う行為

僕はこれまでワーシップソングなどで、「主よ、触れてください」とか「He toutch me」みたいな歌詞を何も意識せずに歌っていました。しかし、この触れてくださいというのは、上述のような情景だということを初めて知りました。

触れられる権利のない罪人である私です。なぜならイエス様は聖いお方だからです。僕がもつ感染性のある罪の汚い性質はイエス様を汚染してしまうかもしれません。しかし、イエス様は、意外なことに本当に感染されたのです。それはイザヤ書に明確に書かれています。

まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
イザヤ53:4-5

イエス様はあなたご自身に、実際に触れることにより、病を負い、重荷を負ってくださるお方です。

おっさん
■主が触れてくださるというととはそれを引き受けてくださるということ

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