主を知っていますか?
最近、すごく心に迫ってくる御言があります。小預言書のホセア書にある有名な御言です。
わたしたちは主を知ろう、
せつに主を知ることを求めよう。
主はあしたの光のように必ず現れいで、
冬の雨のように、わたしたちに臨み、
春の雨のように地を潤される。
ホセア6:3
僕は生まれた時から教会に行っており、洗礼を受けてからも二十数年経ちます。本当に信仰をもってからも20年は経過します。聖書通読も10回以上はしてきています。しかし、僕は主を知っているようで、それほど、いやほとんど知っていないのです。
もちろん、聖書に関して、またイエス様に関しての知識は増えたと思います。覚えた御言も増えたと思います。しかし、主イエス様ご自身はほとんど知っていないのです。肉で主を知っていますが、霊で主を知っていないのです。
知っていない証拠
なぜこんなことを言うかというと、僕自身がイエス様ご自身のように造り変えられてないからです。言い換えると、イエス様のような人格に作り替えられる御霊の実も結んでいないし、さらにイエス様が福音を伝えた愛の宣教の実も結んでいないからです。
肉の自分は言います。「昔の自分よりは割とましだし、それなりに信仰生活を送っていて、教会で奉仕ができていて立派じゃないか」と。そういって、現状の自分に満足してしまっているのです。よく言えば、安定ですが、悪く言えば、ぬるま湯の状態です。
だからと言って、瞬間最大風速的に霊的に燃やされたいわけでもありません。静かに着実に主に近づいていきたいです。それは人格的においても行いにおいてもです。だからこそ、僕は上述の御言のように、もっと主を知りたいです。せつに主を知りたいです。主がどれほど愛に満ちたお方であり、またどのように栄光を現わされるか、僕自身もその働きに参与したいです。
知ることの尊さ
同じホセア書にはこのようにも記載されています。
わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。
燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。
ホセア6:6
主が喜ばれるのは、慈しみであり、ご自身を知ってもらうことだと書かれています。それほど主はご自身を知ってもらえることをこの上なくお喜びになるのです。
僕は「主を求めます。」とはゆってきました。ただこれからは求めるのはもちろんのこと、あなたをもっと知りたいと祈ろうと思います。