0566_ありのままに生きるのは甘えか?

自分という人間

僕は末っ子なので、これまでのほほんと自由に生きてきました。小さいころは兄弟があれこれやってくれていたので、気遣いもできませんし、気も回りません。末っ子であるにも関わらず長男なので一番典型的な面倒な人間だと自任しています。

とは言いつつも、一歩外に出ると割と人の機嫌はすごく気にしてしまいます。内弁慶気質です。気にしすぎる伝えるべきことを伝えられなかったり、伝えるべきでないことを伝えてしまったりとむちゃくちゃコミュケーションがへたくそです。空気を読むこともできないので、いわゆる「え、それ今いう?」的なことを口走ったりしてしまいます。

自分の個性や弱さに対して

こういった自分の弱さややっかいな個性とはうまく付き合っていくほかないと思っています。もちろん、ある人達は訓練によって克服できる人もいるかもしれません。なぜなら言葉には人間を変える力があるからです。言葉によって自分を思いのままに制御できる人は自分を変えられる人です。

しかし、誰もシロクマの白い毛色を根元から赤色変えることができないように根本的には変えられないものだと考えています。たとえ一時的に赤色に変えられたとしても、やがてまた根元から白い毛が生えてきて従来のシロクマに戻ってしまいます。

どう付き合っていくか

僕は自分の弱さや偏執的な個性が決して大好きなわけではありませんが、かといって、嫌なわけでもありません。これが自分であり、ありのままの自分を受け入れています。

もちろん、日常生活を送っていると、自分自身でさえ自分に対して「え!」や「え。。。」というようなことを客観的に感じたりします。それによってもたらされるよろしくない出来事もあります。それでも悲観的にはなりません。

なぜなら、そういう風に創造してくださったのは神様だし、なにより神様により頼めば神様の御手の中で、神様のペースでいい感じに創り変えてくださるという望みがあるからです。

「主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。
エレミヤ18:6

しかも、それだけでなく僕の弱い時に神様が介入して栄光を現してくださることもあるのです!

なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
コリントⅡ12:10

おっさん
■ありのままの自分で生きていくというのは時には甘えのように感じるかもしれないが、自分に対して悲観的になりすぎるよりはいいかと思っている

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