何のために生きるのか?
多くの人は命が直線系と考えていると思います。死と同時に線がそこで終わってしまうのです。しかし、素直に自分の心や魂の声に耳を傾ければ、自分の命が終わるということほどの矛盾と違和感はないと思います。なぜ、死があるのか?何のために生きるのか?という問いに直線系の人生は違和感でしかありません。
特攻隊のとして死んでいった学生の手記である「きけわだつみのこえ」では、自分の命が終わるということに対して壮絶な違和感を感じているということが書かれていました。確かに人の命を直線系ととらえることは正直な魂の叫びには違和感でしかないのです。
クリスチャンは永遠のいのちを与えられている
しかし、こういったことを思いました。それはクリスチャンである僕は天のふるさとに次の春が続いていくという考え方を持っているにもかかわらず、その生き方は実は直線系じゃないのか?という自問です。
クリスチャンは永遠のいのちを与えられており、天のふるさとに帰る望みをもっている。この地上での冬を終えたとしても天における春がまっているとわかっているにもかかわらず、その考えをもっていないかのように振る舞ったり、行動したり、考えたりしていないかと思ったのです。
この世に執着しない
では、円を描く命の世界観を持っている人の生き方とはどのようなものでしょうか?僕はほとんどできていませんが、こういったものだと思っています。
天のふるさとに帰る望みを抱いている人は、この世に執着しません。この世界を楽しもうとせずに天における報酬を求めます。自分を喜ばせることよりも主を喜ばせることを選びます。自分のしたいことをするよりも主の御心に耳を傾けようとします。主の御心であれば自分が損することも喜びます。
キリストに対する愛
このように書くと、「誰がそのようなことができるのか?だって人間だもの」という心の声が聞こえてきそうです。しかし、これはやらないといけないからという外から強制されてするものではありません。むしろ、外から強制されててもできそうにないことばかりです。
ただ一つわかっていることは、天のふるさとに帰る望みを抱いている人の動機はキリストに対する愛だということです。この愛がすべての行動や言葉の源であって、その愛がそのような生き方をさせるのだと思います。
私から離れるのか?
先日、布団に入った時にこのような主の声が聞こえてきました。
「あなたは苦しい時は私から離れるのか?」
その時、私は主に対して本当に愛のない人間だと思いました。そして、そんな僕に対しても変わらない愛をもって共にい続けてくださるイエス様に対して涙が溢れました。愛を動機として、この世では寄留者であり旅人であったという生き方ができますように。