新年の清々しさを心に感じて
2025年の元旦外に出て歩いている時、新年の清々しさを心に感じました。しかし、それはそう思っているだけでこの地球は何も変わっていません。この自然は2024年12月31日と同じように変わらず営みを続けています。僕が心に新年の清々しさを感じたのはただたんに知識を持っていたからにすぎません。
もし、適当な年月から急にカレンダーなしで一年過ごすチャレンジをしたとしても、「今日からが新年だ!」と当てられる人はきっといないでしょう。それは自然が西暦による新年を明確に告げているわけではないからです。
言葉を持っているだけで
このように「新年」という言葉を持っているだけで、その日が普段とは違い特別なものに感じるものです。言葉の力は絶大です。言葉は決して人間から切り離されて客観的に存在するだけではなくて、確かに言葉は人間の中に入り込み、思考を変え、行動を変え、思いを変えることすらできます。行動を変えることができれば関節的に身体をも変えることができます。
これは、もし、良質な言葉をたくさんもっていて、それを自分の中に取り入れ続けることができるなら良い影響を自分に与え続けることができると証明しています。
年末にブログでこの聖書の言葉をピックアップしました。
最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。
ピリピ人への手紙 4:8
聖書の言葉はどれほどに人間に良い影響を与えるか?
もし、たった一つの言葉が人間の精神や霊的側面にこのような影響を与えるとすれば、聖書の言葉はどれほどに人間に良い影響を与えるのだろうか?と思いました。たとえば聖書のこの言葉を聞いてどう思うでしょうか?
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
コリント人への第二の手紙 5:17
ある人は素直になんとなく「そうだろうな」と受け止めます。またある人はひねくれて「もしこの御言が本物ならなぜクリスチャンにはもっとまともな人がいないのか!」と受け入れないかもしれません。またある人は信仰を働かせて「そのとおりだ」というかもしれません。
聖書の言葉は普通の言葉とは違い、霊的なものです。だから人がもし、信仰(霊)によって受け止めるならばその聖書の言葉が自分の中に入り込んで神様ご自身が働かれるようになります。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。
ヨハネによる福音書 1:1-2