自分が正しいと思うもの
聖書の御言は人を教え、戒め、正しくし、義に導くものです。
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
テモテへの第二の手紙 3:16
人は基本的に自分が正しいと思うものなので、教えられたり、戒められたり、正しくされたりすることが嫌です。それは大人になればなるほど顕著になりいます。ある程度長い間生きてくるとその人のくせが出来上がってきて、自分の考えること、行動が固定化されてしまうからです。
悪いくせは人を縛ってしまう
それがいいように固定化されればいいのですが、だいたい、悪く固定化されることがほとんどです。その証拠としてこの世界は生きづらいです。一人ひとりの人間の悪いくせが世界を生きづらくしているのだと思います。
そしてその悪いくせは人を縛ってしまいます。理性では悪いくせだと思っていても、わかっちゃいるけどやめられない状態にしてしまいます。聖書が教え、戒め、正しくしてくれるのは、そういった悪いくせから解放してくれるためです。
すべては神の愛から出ている
だから、もし、心から主に信頼して、聖書の御言に身をゆだねて教えられること、戒められること、正しくされることを求めるならば、主はどうしてもやめることができなかった悪いくせから僕たちを解放してくれます。
聖書は宗教的行いによって人を縛りたくて戒めるのではありません。律法的な行いをさせるために教えるのでもありません。すべては神の愛から出ています。苦しんでいるところから解放されてほしいという神様の強い願いが聖書に表されています。
その最たるものは、イエス様の十字架です。イエス様の十字架の血潮によって罪を断ち切り、解放することができます。イエス様の十字架の血潮にだけ人を作り変える力があります。だから、聖書の御言に身をゆだねて教えられて、戒められて、正しくされるのは幸せなことです。
僕は頑なな心を持っていて頑固
と言いつつも、僕は人一倍、教えられたり戒められたり正しくされるのが嫌だと思う人間です。嫁さんがよく言っています。それは僕に何回言っても直らないし、頑固だし手をこまねいているようです。
だからこんなエラそうなことを書いている自分自身がまず、主の前に降参して身をゆだねる必要があります。
「主よ。僕は頑なな心を持っていて頑固です。しかし、それでは周りに迷惑をかけるばかりで自分も何も変わりません。どうかこんな僕をあなたの御言によって教え、戒め、正しくし、義に導いてください。」